【随筆】−「洪水伝説」               浪   宏 友


 鎌倉時代,青森県の南部地方に大洪水がおこりました。長雨が続き,河川が溢れたとき,白髭を長くなびかせた翁が丸太に乗って流れてきて「われは白髭の翁なり」と名のったので,白髭水(しらひげみず)とよばれるようになりました。のちにこの翁を白髭の大神として祀ったと伝えられています。
 現実的に考えれば,大きくうねる濁流の中に,大木が流れるさまなどが想像されます。あちこちぶつかっては跳ね上がる大きな水しぶきが,白髭の老人だったのかもしれません。 別の話です。あるとき白髭大明神が村人たちに,洪水があるぞとお告げをしました。また大明神の使いの狐が村中を駆け回って人びとに伝えました。ところが村人の中にはこれを信じる人もあり,信じない人もありました。
 信じた人は急いで避難をしましたが,信じなかった人はそのままのんびり構えていました。ところが,やはり洪水が起きて,避難しなかった人びとはみな流されてしまったということです。これは秋田県に残る伝説だと聞きました。
 これは洪水を予知するお話ということになるのでしょうか。それにしても,見たこともない翁から,なんの根拠も示されずに,ただ予告だけされたのでは,信じるのは難しかったことでしょう。
 日本の洪水伝説は,日常生活や農耕と密接に関係しているところが特徴であるように思われます。
 洪水といえば,旧約聖書に出てくるノアの方舟(はこぶね)を思い出さずにはいられません。人びとが神の教えを省みず,堕落の一途を辿るのを見た神さまが,大洪水を起こして人びとを滅ぼしてしまいました。このとき,信仰篤いノアだけは神の言葉を信じて方舟をつくり,家族や多くの動物たちと共に生き長らえたというお話です。
 調べてみると,これによく似た洪水伝説がほかにもありました。
 ギリシャでは,最高神ゼウスが,堕落した人間を滅亡させるために大雨を降らせたことがありました。このとき,デウカリオーンだけは神プロメテウスから教えられ,木の箱を作って妻とともにその中に入りました。地上のあらゆるものが水没したあと,木の箱はパルナッソス山に漂着し,二人はその後古代ギリシャ人の祖となりました。
 インドでは,マヌが救った魚から教えられて箱船をつくり,大洪水のとき家族と共にこれに入って助かったという話があります。マヌはその後インドのある一族の先祖となりました。マヌを救った魚は神ヴィシュヌの化身だったそうです。
 これらの伝説はどれも,それまでの世界が滅びて,助かった一組の夫婦が子孫を残し,新しい世界が建設されるという筋立てになっているようです。
 これらの話は,私に地球上の生命の歴史を思い出させます。
 いまから6500万年ほど前に大隕石が地球に衝突したために,地球上の環境が一変したことがありました。このとき1億5000万年以上も繁栄を続けていた恐竜が絶滅したと言われています。
 しかし,生命体の進化が途絶えることはありませんでした。それまで恐竜の陰で細々と生きてきた哺乳類が,表舞台に出てきたのです。ここからさらに進化が進み,やがて人類の登場となったことは,皆さまよくご存知のことと思います。
 これ以前にも,地球全体が凍りついたり,逆に高温となったりして,多くの生物が滅びたことがあります。そのような厳しい現実があったにもかからず,僅かに残った生命体からさらに進化した生命体が生まれてきたのだそうです。
 洪水伝説とよく似ているなあなどと,感心していてはいけないでしょうか。(浪)

 出典:炭酸検協会報(平成18年8月号に掲載)