【随筆】−「天狗岩用水」               浪   宏 友


 人間の身体は,大人の場合体重の3分の2が水なのだそうです。水分の10%が失われると,深刻な症状が出るおそれがあるとのこと。健康であり続けるためには毎日1.5〜2リットルの水を補給しなければならないと言われています。
 飲料水,生活用水ばかりでなく,農業用水,工業用水など,産業にも水は欠かせません。
 私の家でも,蛇口をひねると水がでます。これが当たりまえになっています。しかしながら,本当はそんなに当たり前のことではないようです。
 なかなか雨が降らないために,水源となっているダムの貯水量が少なくなって給水制限が行われているというニュースを聞いたりします。そんな地域では,蛇口を一杯に開けてもちょろちょろとしか流れなくなる。そんな状態になってしまうわけです。
 こういうとき,水がどこからどうやって我が家にたどりつくのか,改めて考えることがあります。
 江戸幕府が開かれ,市街が整備されたとき,飲料用水を確保するために,井の頭池の水を引いて神田上水が整備されましたが,その後,人口が増加したため,新しい上水が必要となりました。
 このため多摩川から上水を引くことが計画され,さまざまな困難を乗り越え,多くの犠牲をはらいながら,羽村から水を取り入れ四谷まで引き入れる玉川上水が作られました。この水は,現在も東京都の水資源として活用されています。
 青森県では,三本木ヶ原と呼ばれた水のない不毛の土地がありました。木が3本しか生えない原という意味なのだそうです。この土地をなんとかしたいという願いから,南部藩士の新渡戸伝が上水工事を始め,難工事の末に完成した稲生川は,十和田市繁栄の基礎となりました。新渡戸伝は5千円札の顔にもなったことのある新渡戸稲造の祖父にあたる人です。
 水を治めるものは国を治めると言われていますが,ここでは水を治めることで豊かな土地が建設されたわけです。
 すぐ下に大きな川があり,豊かな水が流れているのに,地形の関係で使うことができない。そんな土地も少なくありませんでした。 群馬県前橋市の総社もまた,利根川がそばにありながら水を引くことができない土地でした。このため,頼りは雨だけという不安定な状況だったのです。
 江戸時代初期,時の領主が農民のためを思い,工事期間中の年貢を免除するという決断までして用水工事を行いました。取水できる場所は隣の領にありましたから,領主は熱心に隣の領主を説得するという,政治的な苦労もしたようです。
 こうしてすすめた工事でしたが,取水口あたりに大きな岩があり,これを取り除くことができず,工事は最終段階で行き詰まってしまったそうです。
 ついに人びとは神社にこもって願かけをしました。満願の日になりましたが,大岩はびくとも動きません。神さまにも見放されてしまったのかと皆が嘆いているとき,ひとりの山伏が現れました。そして,大岩は取り除かれ,用水は完成したのです。
 山伏が取り除いてくれたとも,山伏が教えてくれた方法によって取り除くことができたとも伝えられています。
 大岩が取り除かれたときにはすでに山伏の姿はなく,人びとは,あれは天狗さまだったにちがいないと噂し合い,いつしかこの用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。
 私たちの生命を支えてくれる大切な水と,どう付き合っていくのかは、人間がよりよく生き,人間社会がよりよく発展していくために取り組まなければならない永遠のテーマのひとつなのかもしれません。    (浪)

 出典:炭酸検協会報(平成18年11月号に掲載)