【随筆】−「マッチの生い立ち」               浪   宏 友


 古代の人々は、山火事や火山などから火を採取して使っていたと考えられる。やがて、木と木をこすりあわせて火を起こすことが出来るようになった。ついで硬い石と鉄を打ちつけることによって火を起こす方法を開発した。一度起こした火は、消さないように気を配った。もっと簡便に火を得ることはできないものだろうか。人々はそんな願いを持ち続けたに違いない。
 あるパーティの席上で、一人の男が小さな木片を人々に示した。これを紙の間に挟みさっと引き抜くと、なんと指先で火が燃えているではないか。女たちは悲鳴を上げて逃げ出した。男たちも驚き恐れた。指先を燃やしている男を遠巻きにして立ち尽くしている者、恐る恐る近寄る者、じりじりと後ずさりする者もいた。なーんて、これは私の作り話である。
 作り話のヒントは、ジョンウォーカー。イギリス人である。彼は、硫化アンチモニー、塩素酸カリ、アラビヤゴムを混ぜて軸木の頭に着け、硫黄をかぶせたものを作ったそうだ。この軸木を二枚の硝子粉紙の間に挟み軽く摩擦して発火させる方法を考え出したという。現在使われているマッチの始まりとされている。1827年(文政10年)のことであった。
 その後、どこで擦っても火が点くいわゆる摩擦マッチがフランスで発明された。このときの摩擦マッチは、頭薬に黄リンが含まれていた。
 硫黄の発火点は摂氏190度、黄リンは摂氏60度だから火の付きは遥かによかった。ところが黄リンは毒性が強い。その上常温の空気中で自然発火することもある危険なものである。いつ火災を起こさないとも限らない。もっと安全でもっと便利なものを人々は求めたに違いない。
 1855年(安政2年)、スウェーデンで安全マッチが発明された。発火材に赤リンを用いたマッチである。摩擦マッチは頭薬に発火材が入っているが、安全マッチの頭薬には発火材が含まれていない。発火材である赤リンは小箱の側面に塗布されている。こうして軸木と発火材が分離され、安全性が一段と増すこととなった。その代わり、軸木だけを持っていても火をつけることはできない。
 人間はさまざまである。安全マッチができたから、摩擦マッチはいらなくなるのかと思えば、どこで擦っても火が点くところに利便性を覚えてか、なお摩擦マッチを望む人が絶えなかった。こうして頭薬に黄リンを含むマッチの生産が続けられた。
 有名なアンデルセン童話「マッチ売りの少女」で少女が売っていたのは黄リンマッチである。
 清水誠は日本におけるマッチの始祖と言われ、日本で初めて工業的にマッチ生産を始めたと伝えられている。マッチの歴史年表には、1875年(明治8年)に黄リンマッチの本格的な製造を開始したとある。日本国内に広く流通した最初のマッチも、黄リンマッチだったのである。
 しかし安全性が低く健康にも良くない黄リンマッチは、1920年(大正9年)のワシントン国際労働会議の決議を受けて、1922年(大正11年)以降世界から姿を消した。
 摩擦マッチは1898年(明治31年)にフランスで発明された硫化リンマッチに引き継がれた。西部劇でカウボーイが靴の裏やベルトのバックルに擦って点火しているのが、この硫化リンマッチだという。
 日本で安全マッチが生産され始めたのは1879年(明治12年)で、やはり清水誠の尽力によるものであった。安全マッチはその後日本の津々浦々に浸透し生活必需品となっていった。
 マッチの生い立ちにかかわるこうした話は、社団法人日本燐寸工業会の発行になる図書及び同会のホームページ掲載の資料から学ばせていただいた。     (浪)

 出典:清飲検協会報(平成20年 6月号に掲載)