【随筆】−「マッチの始祖」               浪   宏 友


 日本にマッチが登場したのはいつごろのことだろう。社団法人日本燐寸工業会からご提供いただいた資料『国産マッチ130年の歩み』(平成17年12月)及びその他の資料から学びとってみよう。
 1847年(弘化4年)に蘭学者川本幸民が、黄リンを使ったマッチを試作している。
 その前後にも日本国内では若干の動きがあったようだが、いずれもマッチが世間に広がる原動力にはならなかったらしい。
 1875年(明治8年)にマッチ生産を始めたのが清水誠である。ここから数えて130年目が2005年(平成17年)となる。
清水誠は、当初、三田四国町にある宮内次官吉井友実の別邸を仮工場としてマッチを生産した。その最初のマッチを宮内省に献上したという。
 清水誠がフランスで吉井友実に出会ったのは1869年(明治2年)であった。官費で留学していた清水誠がパリのホテルで吉井友実に会ったとき、吉井が卓上のマッチを指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか」と言った。清水誠はそのときマッチを日本で生産する決心をしたと伝えられている。彼22歳のときであった。
 そうした縁がもととなり、また吉井友実を始めとする周囲の協力があって、マッチ生産にこぎつけることができたのである。
1876年(明治9年)、清水誠は本所柳原町に一大工場を新築し「新燧社」と名付けて本格的なマッチ生産を始めた。
 「燧(すい・ひうち)」とは、火を得るために用いる道具のことであり「石燧(せきすい)」といえば火打ち石のことである。この社名には、マッチを新しい燧として世間に普及しようとする、若き清水誠の心意気が感じられる。
 清水誠がマッチの製法を独り占めすることなく一般に公開したことにより、各地にマッチ工場が建設された。これが日本の産業振興に大きな意義をもたらしたと言われている。
 さらに1878年(明治11年)、新燧社製マッチが清国の上海に初めて輸出されたが、その後の日本マッチの隆盛が輸出によって支えられてきた一面があることを思えば、これまた快挙と言っても良いだろう。
 新燧社は、現在の東京都墨田区にあり、東京都立両国高校をすっぽり包む大きな工場だったことが判明している。同高校の校庭には「国産マッチ発祥の地」の記念碑が建立されている。
清水誠は1878年(明治11年)に渡欧し、スウェーデンで発明された安全マッチについて多くを学んだ。
 ところが渡欧している間に新燧社の工場が火災で全焼してしまったのである。作られていたのは黄リンマッチであったから、常に火災の危険と背中合わせであったことがうかがえる。
 1879年(明治12年)に帰国した清水誠は工場を再建し、安全マッチの生産を始めた。彼の不屈の精神を垣間見ることができる。
その後、日本中にマッチ生産工場が建てられ、輸出も盛んに行なわれた。ところが中に粗悪品を生産し輸出する業者が数多く現れたため、世界における日本のマッチの信頼は地に墜ち、マッチの輸出が激減するという事態が起きてしまった。
 その煽りもあったのであろう、新燧社の経営が立ち行かなくなり、清水誠は明治21年に工場を閉鎖した。
 不屈の清水誠は、その後も新しいマッチ製造機を研究開発し、1897年(明治30年)大阪に旭燧社を設立したが、軌道に乗る前に病に倒れ、1899年(明治32年)大阪で55年の生涯を閉じた。
マッチに全身全霊を傾けた清水誠は、日本人の生活にも産業にも文化にも、多大な功績を残した。清水誠がマッチの始祖と呼ばれている由縁である。     (浪)

 出典:清飲検協会報(平成20年 7月号に掲載)