【随筆】−「抜歯」               浪   宏 友


 横浜市中区に「歯の博物館」があることを知った私は、初夏のある日に訪れてみました。みなとみらい線馬車道で下車。徒歩6〜7分程度で神奈川県歯科医師会の会館に着きました。歯の博物館はこの中にあります。ここには歯に関する歴史資料がびっしりと展示されていました。
 この日は、歯の博物館担当の篠原昭人さんが、わざわざ案内してくださいました。
 展示の中に抜歯に関するものがありました。
 太った男が体を押さえつけられている絵では、男の大きく開けた口の中に金属製の道具を突っ込んで、歯を抜き取っている歯医者?がいました。
 一人の女性を処刑台に縛りつけ、無理やり歯を抜いている絵にはおぞましいものを感じました。
 日本の江戸時代の絵でしょうか、畳の上に座ってのけぞっているお歯黒の女性の口に、羽織り袴の男が真剣な表情で、やっとこのような道具を当てている抜歯の絵がありました。こうした絵を見ていると、なんだか自分の歯がむずむずしてきます。
 現代は、虫歯を抱えて歯医者さんに行くと、まだ軽いうちなら虫に食われたところを取り除いて、詰め物や被せものをしてくれます。虫歯を放置しておいて、手遅れになったときは抜くしかありません。しかし、現代日本で行なわれている抜歯を絵にしても、あまり面白くないかもしれません。
 洋の東西を問わず、虫歯を治療する有効な方法を持っていなかった時代には、虫歯は放置しておくしかなかったでしょう。そうすると、やがて神経をやられて、痛くて痛くて我慢できなかったでしょう。ついに歯を抜かざるを得ないというお決まりのコースになったのであろうと想像できます。
 博物館に歯を抜く道具の展示がありました。
 歯を抜くときに、痛みを感じる暇を与えないように、一瞬で抜いてしまおうという考えかたから、そのための器具が、さまざまに工夫されていました。また、歯に力を加えてぐらつかせてから一気に抜くという方法もありました。いずれにしても、歯を抜くときは痛かったでしょうね。思わずほっぺたの上から歯を押さえてしまいました。
 歯は骨が伸びたものではなくて、あご骨の中に埋まっているものですから、抜くことができます。しかし、目に見えている部分よりも隠れている根のほうがずっと長いのです。しかも、歯根膜という丈夫な繊維で、歯と骨がしっかりと結びつけられています。
 歯の根は一本足、二本足、三本足になっていて、歯槽骨に食い込むように、あるいは歯槽骨をつかむようになっています。
 こんなに抜けにくいものを無理やり抜こうというのですから、たまったものではありません。その痛みは並大抵ではなかったでしょう。抜いた後に熱を出して寝込んでしまう人も続出したのではないでしょうか。それでも抜かなければ、今度は絶え間ない虫歯の痛さに襲われたわけです。
 私が虫歯を抜いてもらったときは、麻酔をかけて、痛さを感じないようにしてもらいました。それでも抜歯のときは手足に力が入ってしまいました。まして麻酔も何も無しに抜歯された人は、どれだけ痛かったかと、想像するだけでも歯がぐらついてきそうです。
 抜歯の痛みを感じさせないためにいろいろな試みがあったようです。ぶん殴って気絶させ、その間に抜歯をしてしまうという乱暴極まるものから、冷やすだけ冷やして感覚を麻痺させる方法、薬草を使って歯ぐきを痺れさせる方法など、民間療法的な方法が永く用いられてきたようです。
 歯科医師が、抜歯のために全身麻酔を用いたのは1840年代ころだそうです。このあたりから歯科医療に麻酔が用いられるようになってきたようで、麻酔が発達してから抜いてもらった私は、本当に幸運でした。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成21年7月号に掲載)