【随筆】−「歯の色」               浪   宏 友


 私の歯は、どうも色がついてしまいます。黒っぽくというか、茶色っぽくというか、とにかくかなり濃い色が着きます。
 歯が着色していると、汚れているように見えます。確かに汚れてはいるのですが、歯磨きの主要な目的である歯垢の除去という観点からは、私の歯はきれいなのです。しかし、見た目にはどうしても汚れています。
 歯医者さんが心配して原因をいろいろと研究してくださいました。行き着いた結論は、ヨード系のうがい薬でした。歯科医師の先生と歯科衛生士さんが相談して、色のないうがい薬をすすめてくださいました。これを使い始めたところ、歯の着色が極端に少なくなりました。他の原因もあってか、まだうっすらと色が着いていますが、汚れてるというほどでもないので、そのままにしています。
 人によっては、私のような呑気な態度ではいられません。真っ白でないと気が済まない人もいるようです。
 唐の玄宗皇帝に仕えた杜甫は、玄宗の妃である楊貴妃を「明眸皓歯(めいぼうこくし・澄んだ瞳と白い歯)」と歌いました。歯の白さが美女の条件のひとつだったのでしょう。現代の女性たちも歯並びの良い真っ白な歯にあこがれます。歯を白くしたい人達が、歯医者さんにホワイトニングをしてもらうようになりました。歯医者さんでは、過酸化水素の入った薬品を用いて歯を白くするのだそうですが、その技術も進んでいると聞きました。
 ところで日本には、女性たちが真っ黒い歯にあこがれていた時代があったのです。
 横浜の歯の博物館で、篠原昭人さんにご説明をいただきながら、いろいろな珍しいものを拝見してきましたが、お歯黒の話も興味深いもののひとつでした。
 お歯黒というのは、歯を全部、真っ黒にするものです。江戸時代の女性たちは、上層階級から庶民まで、ある年齢に達するとお歯黒にしていたそうです。お歯黒は既婚女性のシンボルだったようですが、そのうち成人のシンボルになったそうです。公家のような上層階級では男性もお歯黒にしていたようです。
 まてよ、してみると江戸時代の女性たちは成人するとみんなお歯黒だったわけだから、実際の江戸の町では、前も後ろも右も左も、お歯黒の女性たちばかりだったということになる。それにしてはテレビ時代劇の女性たちの歯は真っ白だなあ。なんて、余計な心配をしてしまいました。
 お歯黒をするには、二つの薬品が必要です。「ふし粉」と「かね水」です。
 ヌルデという植物に、ある種のアブラムシが寄生して虫こぶを作ることがあるそうです。この虫こぶを採取してすりつぶし、粉にしたものが「ふし粉」です。ふし粉はタンニンを多量に含んでいると聞きました。
 「かね水」というのは、お酒、もち米、お粥などに錆びた鉄くずを入れて、かまどの側で発酵させたものだそうで、それぞれの女性の秘伝だったようです。かね水には、酢酸第一鉄が含まれています。
 女性たちは歯をよく磨いてから、ふし粉と温めたかね水とを、交互に歯に塗ります。すると歯が真っ黒になります。これを「かねつけ」と言いました。お歯黒がはげると、はしたないとされていましたから、数日置きにつけました。江戸時代の女性たちは、朝早く起きて、かねつけをしていたそうです。
 明治に入って外国の人々が入ってくると、お歯黒が奇妙に映ったらしく、女性蔑視だと非難されたようです。このため明治政府はお歯黒を禁止しました。長い間続いた習慣ですから、パッタリ止むとはいかなかったようですが、次第に廃れていきました。
 お歯黒は絶滅したと思っていたら、変身願望の女性たちでしょうか、舞台メークアップ用のおはぐろで、果敢にチャレンジしている人がいるらしいんです。今でも。出会ったら、どんな感じでしょうね。       (浪) 

 出典:清飲検協会報(平成21年9月号に掲載)