【随筆】−「入れ歯」               浪   宏 友


 私には歯の無いところが二カ所あります。虫歯のために抜いてしまったところです。抜いた後に、歯医者さんが部分入れ歯をしてくれたのですが、異物感が強くて、どうしても落ち着きませんでした。そのうちに外れて、紛失してしまいました。それっきりになっています。
 歯がないまま放置しておくと、隣の歯が傾いてきたり、向かい側の歯が相手を捜したりして、悪影響が出るのだそうです。
 私の周囲に、総入れ歯の人がいました。上の歯も下の歯もすべて失っているためです。聞いてみると、総入れ歯は手入れもなかなか大変なようでした。
 すべての歯が無くなった後の歯ぐき、これを顎堤といいます。俗に土手ということもあります。上側の総入れ歯は、上側の顎堤と口蓋に吸着するように作られます。入れ歯の形が顎堤と口蓋の形に良く合っていると、吸着面積が広いこともあって、しっかりと固定されるそうです。
 下側の総入れ歯は吸着するところがほとんど顎堤だけになってしまいますから、安定しにくいのだそうです。これを安定させるのは、歯医者さんの腕のみせどころだと聞きました。
 総入れ歯でも、ピッタリしていれば、食べ物も噛めます。見た目ににも違和感がありません。他人に気づかれることもありません。
 ピッタリした総入れ歯を作ることができても長い間には口の形が変わってきますから、合わないところが出てきます。歯医者さんは、その変化に応じて総入れ歯を直すのだそうです。総入れ歯が口の中で安定するのは、なかなか難しいことのようです。
 横浜の歯の博物館を見学したとき、担当の篠原昭人さんが、西洋の総入れ歯と日本の江戸時代の総入れ歯を説明してくださいました。
 江戸時代の日本では、現代とほとんど変わらない手法で総入れ歯が作られていました。ただ、材質が異なっていました。現代の総入れ歯は、レジンというプラスチックや、コバルトクローム、チタン、白金加金などの金属を使います。総入れ歯の裏打ちにシリコンを使うこともあります。これに対して江戸時代の総入れ歯は、木製です。硬い木を彫刻して作っていました。
 「現在までに発見された最古の木床義歯は、1538年に74歳で没した仏姫の上顎の総義歯」と、博物館の説明書にあります。さらに「木床義歯の創造は、平安時代末期と思われ鎌倉時代には全国的に普及していたのではないかと想像されます」とあります。鎌倉幕府が開かれたのが1192年ですから、今から800年以上も前になります。
 一説では、日本の総入れ歯は、仏像をつくる仏師が手がけたのが始まりであろうと言われています。仏師は人間の身体をよく研究していたでしょうから、そこからアイデアが生まれ、持ち前の技術・技能で高度な総入れ歯を作り上げたのかもしれません。
 博物館の資料には「わが国と同じ理論の義歯が欧米で発明されたのは、1800年」といいますから、江戸時代の真っ只中、十一代将軍徳川家斉の世です。実用化されたのは明治時代の頃からのようです。
 欧米のそれまでの総入れ歯は、日本の考えかたとはまったく異なったものでした。上側の歯と下側の歯の後方にバネを取り付けて、バネの反発力で、入れ歯を顎堤に押しつけるようにしていました。バネの力が弱すぎればすぐに外れてしまいますし、強すぎれば口を閉じるのが大変です。日本の総入れ歯には実際に食べ物を食べた跡が残っているそうですが、欧米の総入れ歯は食事のときには外すしかありませんでした。これを見ると、日本の総入れ歯の考えかたや技術が、世界に先駆けて卓越していたことが分かります。
 しかし、入れ歯のご厄介にはならないほうがいいわけですから、歯の手入れを正しく続けることを肝に銘じたいと思います。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成21年11月号に掲載)