【随筆】*「クレオパトラの真珠《               浪   宏 友


 ローマのプリニウスが書き残した「プリニウスの博物誌《というものがあって、ここにクレオパトラが炭酸水を飲んだという記事があるそうです。諸説あるようですけれど、大まかには次のようなお話でした。
 ローマの将軍アントニウスがエジプトに遠征したときのことです。エジプトの宮殿で、毎夜、贅を尽くした宴会を催して、諸国から集めた美食を並べ立てて、美酒を浴びるほど飲み干していました。この席に同席していたクレオパトラたちに、ローマの軍人としての誇りと奢りを、見せつけていたのだと伝えられています。
 クレオパトラは、傲慢なアントニオをさげすむように言いました。この程度の宴会で贅沢を尽くしているなんてとても言えません。私ならたった1回の食事で、10の国にも値するような席を設けることができます、と。
 クレオパトラの言葉にアントニウスは、そんな宴会をぜひみたいものだと、せせら笑いました。
 翌晩、クレオパトラは盛大な宴会を催しました。しかし、それはこれまでアントニウスが行ってきた宴会と特にかわったものではありませんでした。
 アントニウスは言いました。これが10の国にも値するような宴会か。大口を叩くにもほどがある。いい加減に負けを認めなさい。
 そんなアントニウスを見向きもせずに、クレオパトラは侍女に合図をしました。侍女が捧げ持ってきた大きな器には、この地で採れる最上の葡萄からできたビネガーが注がれていました。
 ビネガーの器を食卓に置かせると、クレオパトラは自分のイヤリングの片方を取り外しビネガーに投げ入れました。
 イヤリングには、大きな真珠があしらってあったのです。
 当時、宝石の中でもっとも価値のある宝石は真珠でした。ダイヤモンドが宝石の王者になるのは、研磨技術が確立してからのことだと言いますから、クレオパトラから1500年もあとになります。
 クレオパトラのイヤリングの真珠は、宝石の中の宝石であり、まさしく10の国にも値するような貴重なものでした。
 ビネガーに投げ入れられた真珠は、気泡を発しながら溶けていきます。ビネガーには酒石酸と酢酸が含まれていますし、真珠の主成分は炭酸カルシウムです。両者が反応すれば炭酸ガスが発生します。
 やがて、真珠はすべてビネガーに溶けてしまいました。10の国にも値するような価値ある真珠が溶け込んだビネガーがそこにありました。
 クレオパトラは、ビネガーの器を優雅に取り上げると、驚きで声も出ないアントニオたちの眼前で、悠々と飲み干しました。
 クレオパトラは再び合図をしてビネガーを運ばせ、もう一方の、やはり同じように高価な真珠をつけたイヤリングを投げ込もうとしました。
 これを押しとどめたのは、この勝負の審判を引き受けていた将軍ルキウス・ブランクスでした。ブランクス将軍は女王の手を押さえアントニウスを振り返ると、あなたの負けですと宣言しました。
 社団法人全国清涼飲料工業会の『清涼飲料の常識』(2003年5月15日発行)には、「炭酸飲料にまつわるクレオパトラの話とは《と題して、次のように書かれています。
 「世界で最初に炭酸含有の飲料をつくったのはクレオパトラだという伝説がある。‥‥‥真珠の主成分は、炭酸カルシウムで、酸に溶けると反応して炭酸ガスが発生する。‥‥‥いかにもクレオパトラにふさわしい話題である。《
 10の国にも値するような真珠が溶けて、たった一杯の炭酸飲料になったビネガーは、どんな味がしたのでしょうね。    (浪)

 出典:清飲検協会報(平成23年3月号に掲載)