【随筆】−「髪結いの祖」               浪   宏 友


 私は長野県長野市に在住しておりますが、ここに有名な善光寺があります。善光寺本堂のすぐ東側に、石垣に囲まれた大きな石碑が建っています。正面に「藤原采女亮碑」とありますが、いったいどんな人物なのか、まったく知りませんでした。
 石碑の由緒書きによれば、明治時代、理容関係者がこの石碑を建てたということなので、資料を探してみましたら、ありました。始めて髪結いを業とした日本人ということで、髪結いの始祖とされている人物でした。
 藤原采女亮之政(ふじわらうねめのすけゆきまさ)が、髪結いを業とするようになったのには、深いいきさつがありました。
 鎌倉時代、亀山天皇の御代、皇居の宝物護衛にあたっていた藤原基晴は、お預かりしていた宝刀「九王丸」を失くしてしまいました。盗難にあったのです。このため職を解かれた基晴は、九王丸を取り戻そうと、三人の息子と共に苦難の道を歩み始めました。
 長男は反物商人、次男は染物師となって、京で宝刀を探すことになりました。基晴は三男の采女亮を伴って諸国を歩き回りました。 ちょうどそのころ、蒙古の大軍勢が日本を攻略しようと押し寄せてきました。時の執権北条時宗は、博多湾沿いに守りを固め、長い闘いが続いたのです。この闘いのために各地から武士たちが博多方面に集まってくるのを見た基晴は、武士の多く集まるところに宝刀を持つ者も現れるに違いないと、下関に滞在することにしました。
 しかしこの地で暮らそうにも生活費がありません。采女亮は新羅の人から技術を学び、髪結いで生活費を得るようになりました。日本で髪結いを業としたのはこれが始めてだとされています。采女亮の髪結いは評判となり客足が絶えなかったそうです。
 ところで、采女亮が開いた店には正面に床の間があつらえられ、亀山天皇を祀り、藤原家の掛け軸が掛けられていました。このため人々から床の間のある店という意味で、床場、床屋と呼ばれたのだそうです。理髪店を「床屋さん」と呼ぶのにも由緒があったんですね。 父の基晴は、艱難辛苦の甲斐もなく、宝刀を見つけられないまま下関で没しました。父を見送った采女亮は、その後数年を下関に過ごした後、幕府のあった鎌倉に移り住み、髪結いを続けました。父の遺志を継ぐ気持ちにはならなかったのです。
 采女亮の髪結いは鎌倉でも評判を取り、幕府の役人たちもおおいに利用したようです。
 采女亮が始めた髪結いの業は、子孫に受け継がれました。鎌倉幕府が崩壊し、室町幕府が終わり、やがて江戸時代、徳川幕府の膝元で髪結いが盛んになりますが、ここでも次のような逸話が語られています。
 元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗北を喫した徳川家康が、浜松に向かっていたときのことです。折悪しく大雨で満水となった天竜川(ちょっと方向がちがいますがそういうお話しになっています)をどうしても渡ることができません。
 このとき、采女亮から17代目の北小路藤七郎が通り掛かりました。ことの次第を知った藤七郎が、浅瀬を案内してあげたために、家康一行は無事に川を渡ることができました。藤七郎は家康の供に加わり、途中、家康の髪を結い上げました。
 この功績に対して家康は他の褒美とともに銀一銭を与えました。ここから髪結いを一銭職と言うようになったのだそうで「一銭職由緒書」が、現在まで、各地の理髪店に伝えられているそうです。
 こうした言い伝えから、藤原采女亮が髪結いの祖と呼ばれるようになったのですね。
 京都の嵯峨にある御髪神社の主神は、藤原采女亮之政です。ここには髪塚もあり、髪供養が執り行われているそうです。
 善光寺の石碑の裏側には、このような髪結いの逸話が隠されていたのです。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成24年4月号に掲載)