【随筆】−「佐保姫の伝説」               浪   宏 友


 第十一代垂仁(すいにん)天皇の后である佐保姫は、垂仁天皇の従姉妹にあたります。佐保姫には佐保彦という兄がいました。
 垂仁天皇の父と、佐保彦、佐保姫の父は異母兄弟でしたから、血筋から言えば、佐保彦が天皇になってもおかしくありませんでした。佐保彦は、垂仁天皇を廃して自分が天皇になりたいと日夜考えていました。そんなとき、自分の妹の佐保姫が、垂仁天皇の后となったのです。
 佐保彦は妹のもとに訪れて、訊ねました。
「お前は、夫と兄と、どちらが愛しいか」
 妹は兄に答えました。
「どちらかというのなら、私はお兄さまのほうが愛しいです」
 兄は、うなずいて言いました。
「お前が本当に私の方が愛しいと思っているのなら、私とお前で、この国を治めよう」
 意味が分からず戸惑っている妹に、兄は小刀を渡して命じました。
「天皇が寝ているときに、刺し殺せ」
 妹は、驚きましたが、決然とした兄の顔を見上げると、何も言えず、小刀をそっと衣の裏に隠したのでした。
 天皇は、そんなはかりごとがあるなどと、知るよしもありません。ある日、后の膝枕でぐっすり眠ってしまいました。
 后は兄の言葉を思い出し、今しかないと、小刀を取り出しました。后は小刀を振り上げましたが、振り下ろすことができません。もう一度振り上げましたが、やはりできません。三度振り上げましたが振り下ろすことができず、大粒の涙がこぼれ、天皇の顔に落ちました。眼を覚ました天皇は、后が小刀を握りしめて泣いているのを見て驚きました。
 隠しきれないと思った后は、天皇にことの次第を白状しました。天皇は驚き、怒って、軍勢を集め、后の兄の佐保彦を討ち取るために出陣しました。
 佐保彦は、稲を集めて作った砦にたてこもり、天皇の軍勢に立ち向かいました。
 佐保姫は館を抜け出し、兄の砦に逃げ込みました。兄と運命を共にすることを選んだのです。しかしそのとき、佐保姫は垂仁天皇の子を懐妊していました。
 天皇は后が愛おしく、また懐妊していることを知っていましたので、砦を遠巻きにして一気には攻めませんでした。
 月満ちて、御子が生れました。佐保姫は天皇に呼びかけました。
「この御子が、天皇の御子だとお思いなら、受け取ってください」
 天皇は、兵士たちに申しつけました。
「御子を受け取るときに、その母もつかみ取れ。髪でもよい、腕でもよい、衣でもよい。つかんで砦から引きずり出せ」
 佐保姫は、天皇がきっとそうするだろうと思っていました。
 佐保姫は髪をすっかり剃り落とし、その髪で頭を覆いました。ずいぶん思い切ったことをしたものです。女の命とまで言われる髪をすべて剃り落としてしまうのですから佐保姫の覚悟の深さが伺えます。更に佐保姫は、腕に玉緒(たまのお)を腐らせたものを三重に巻きました。その上、酒をかけて腐らせた衣を身にまといました。
 兵士が御子を受け取るときに、后の髪をつかみますと、髪が落ちてしまいました。腕をつかもうとすると、玉緒が切れてつかむことができませんでした。衣をつかむとぼろぼろに破けて、逃げられてしまいました。
 報告を聞いた天皇は悔しがりましたがどうにもなりません。それでもなお、言葉を尽くして后に呼びかけるのですが、后が砦から出てくることはありませんでした。
 ついに意を決した天皇は、砦を攻め、火を放ち、佐保彦と佐保姫の兄妹は、炎に包まれて果てました。
 遠い昔、権力争いの坩堝に生まれた、悲しい愛の物語です。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成24年5月号に掲載)