【随筆】−「髪長姫」               浪   宏 友


 古事記に「髪長比売(かみながひめ)」という名前が見えます。ここでは「髪長姫」と書かせていただきます。
 第15代天皇は応神天皇(おうじんてんのう)で、当時の都は奈良県のあたりだと思います。
 あるとき応神天皇は、日向国(ひむかのくに)の諸県(もろがた)の豪族に、美しい娘があることを聞き及びました。そのような美しい娘なら側仕えをさせよう。そう思って早速呼び寄せました。この娘が髪長姫です。
 髪長姫の郷里である日向国の諸県は、宮崎県から鹿児島県の一部にまたがるかなり広い範囲だったようです。ここを治めていた有力な豪族と天皇とが、髪長姫を通して姻戚関係になるわけです。これは政治的に見ると、大きなできごとだったにちがいありません。
 天皇に召された髪長姫は、船で難波津(なにはづ)に着きました。
 応神天皇の子どもに、大雀命(おほさざきのみこと)がいました。大雀命は、美しい娘が来るという噂を聞いて、難波津に出かけました。船から降りる髪長姫を見ますと、姿が整って美しく輝くようです。たちまち髪長姫の虜になってしまいました。
 大雀命は急いで都に立ち帰ると、朝廷の有力者である建内宿禰(たけのうちのすくね)を訪ね、髪長姫を自分にくださるように、父上(応神天皇)に頼んでくれと頼みました。建内宿禰は応神天皇に、大雀命の願いを伝えました。
 応神天皇は、新嘗(にいなめ)の祭の日に、髪長姫にお酒を受ける柏を持たせ、大雀命に届けさせました。
 柏の葉は幅も広く長さも長いので、昔から食品を包んだり、食器にしたりしていたようです。今でも端午の節句には、柏餅を供えたり食べたりしてますね。
 髪長姫が柏の葉を持って大雀命のところまでいきますと、天皇は歌に託して皇太子に呼びかけました。「橘の蕾のような赤くつややかな少女を、自分の妻としたらよかろう」と。 父親の深い愛情かと思いきや、そのすぐあとに「せっかく連れてきたのに、ちょっと惜しいな」とも受け取れる歌をつぶやいているところを見ますと、話は単純ではなさそうです。もしかしたら、臣下とはいえ大きな権力を持つ建内宿禰の言うことには逆らえなかったのかもしれません。
 大雀命のほうは、嬉しくって嬉しくって、有頂天といった按配でした。
 大雀命はその後第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)となりました。その子ども3人が、第17代履中(りちゅう)天皇、第18代反正(はんぜい)天皇、第19代允恭(いんぎょう)天皇となりましたが、そのなかには、髪長姫の子はいませんでした。  私の母が都城市に住んでいますので、この地方のことを学んでいましたら、早水(はやみず)神社の話に巡り合いました。ここには、湧き水でできた池があるのですが、なんと、髪長姫はこの池の水で産湯を使ったという言い伝えがありました。ここが髪長姫の生誕地とされているのです。そこから少し離れた牧之原古墳群の一角に、髪長姫のブロンズ像が立っているそうです。
 さらに、こんな話も耳にしました。
 宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群は有名ですが、ここに巨大な古墳、男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)があります。この古墳は、高天原から高千穂の峰に降り立ったニニギノミコトとその妻のコノハナサクヤヒメの墳墓とされています。
 しかしある研究者は、男狭穂塚はこの地方の豪族であった諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)のものであり、女狭穂塚がその娘である髪長姫のものではないかと語っているそうです。
 髪長姫は、この地方の皆さんに親しまれているのですね。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成24年6月号に掲載)