【随筆】−「かみのけ座」               浪   宏 友


 リビア東部にあるキュレネの遺跡には、ゼウス、アポロンなど、ギリシャの神々の神殿があります。キュレネという名は、少女キュレネに由来しています。少女キュレネは、北ギリシャにある大きな河の河神の孫娘です。
 少女キュレネは美しい容姿を持ちながら、いつも身軽な装いで野山を駆けめぐり、狩猟に明け暮れていました。彼女は、野山の妖精だったのかもしれません。
 ある日、少女キュレネが、武器も持たずにライオンと取っ組み合いをしていました。たまたま通りかかったアポローンがこのありさまをみてびっくりしました。同時に、激しい愛を覚えてしまったのです。
 ライオンを仕留めてぐったりしている少女キュレネを抱き上げたアポローンは、そのまま北アフリカまで連れて行ってしまいました。その土地がキュレネの町です。この町の人々は、アポローンとキュレネの子孫であると伝えられてきたそうです。
 それからずっと後の話です。紀元前3世紀頃、キュレネの町を治めていた王に、髪の美しい娘がいました。その髪の美しさを讃える声は、遠くの国々まで届くほどでした。
 王の跡をついで、キュレネの町を治めるようになったのは、この娘の夫でした。
 ところがこの夫、あろうことか娘の母親と密かに愛を交わしてしまったのです。これを知った娘は、怒りに満ちて夫を殺してしまいました。気性の激しさは、少女キュレネの性質を受け継いでいたからでしょうか。
 キュレネの町はエジプトの近くです。そのころのエジプトは、プトレマイオス三世が治めていました。娘は、夫を殺したのち、プトレマイオス三世と結婚し、ベレニケ二世となりました。このときからキュレネの町もエジプトの一部となりました。
 プトレマイオス三世には姉がいて、シリアの王に嫁いでいましたが、陰謀にかかって殺害されてしまいました。姉を殺されたプトレマイオス三世は、怒りに満ちて戦争を起こしました。この戦争は、最後は勝利しましたが、5年もの月日が費やされました。
 このとき、ベレニケ二世は、国を留守にしがちな夫に代わって、重臣たちと共に内政を担当しました。プトレマイオス朝がもっとも栄えたのは、プトレマイオス三世のときだといいますが、その陰にはベレニケ二世の内助の功があったのです。
 シリア戦争の最中のことです。ベレニケ二世のもとに大変ことが伝えられました。夫のプトレマイオス三世が、敵に捕らえられたというのです。
 夫は殺されるかもしれない。しかし、自分には何もすることができない。
 ベレニケ二世は神殿に駆け込み、美の女神アプロディーテーの前にひれ伏しました。どうぞ夫を救ってください。夫が無事に戻りましたら、私の髪を差し上げます。
 祈り続けるベレニケ二世のもとに知らせが入りました。夫が無事に帰還したというのです。女神は私の願いを聞き届けてくださった。喜びの涙に濡れながら、ベレニケ二世は自分の髪を切り、アプロディーテーの祭壇に捧げたのでした。
 帰還した夫は、妻の美しい髪がなくなっているのに驚きました。しかし、ことの次第を聞いて深く感動しました。
 夫と妻は、アプロディーテーに感謝を捧げようと祭壇まできてみると、なんと、髪がないではありませんか。怒りに満ちたプトレマイオス三世は、神殿を守る神官たちを処刑すると言い出しました。
 そこに宮廷天文学者が進み出て、申し上げました。お后の髪は、アプロディーテー女神が天に上げられました。
 宮廷天文学者が指さす夜空を見ると、ベレニケ二世の髪が、美しい光を放っていました。
 春の夜空に淡い光を放つ「かみのけ座」が、この美しい髪だということです。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成24年12月号に掲載)