【随筆】−「ロムサイソー」               浪   宏 友


 アンコール遺跡の壁面に、女性のレリーフが数多く彫られています。女性像で壁が埋め尽くされているところもあるようです。
 女性像は、ふくよかな体に薄布をまとい、頭に華やかな冠をつけ、胸、腰、手首、二の腕、足首、耳などにきらびやかな装飾品をつけています。
 この女性たちはデヴァターとよばれ、女神たちだということです。
 こうしたはなやかな女性像の中に、質素な少女がまじっています。伝説の少女ロムサイソーです。彼女は冠をかぶっていません。装飾も身に付けていません。その代り、長く垂らした髪を、両手でまたは片手で握っています。これにはわけがあるのでした。
 今から2500年ほども前の物語です。インド北部に釈迦族という小さな部族が豊かな国を建てていました。釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタは、恵まれた境遇にありながら、深い悩みを懐いていました。人間は老いる。病気をする。最後は死を迎える。だれもこのことから逃れることはできない。この苦しみはどうにもならないのであろうか。
 シッダールタは、こうした人生上の難題を解決するために城を捨てて出家し、修行の道に入りました。アーラーラ仙人のもとで修行しましたが、ここでは悟りは得られませんでした。次にウッダカ仙人について修行を重ねましたが、ここでも悟りには到達できませんでした。シッダールタは、ついに一人で苦行の道に入りました。しかし、苦行もまた悟りを得る道ではないと見切りをつけて、菩提樹のもとで最後の瞑想に入りました。
 これを見ていた阿修羅たちは慌てました。このままではシッダールタに悟りを開かれてしまう。そうしたら、自分たちの居場所がなくなってしまう。大変だ。
 そこで、阿修羅たちは修行の邪魔を始めました。魅惑的な羅刹女たちを差し向けて誘惑しましたが、シッダールタは見向きもしません。城に残してきた家族たちに化けて泣き落としにかけようとしましたが、見抜かれてしまいます。業を煮やした阿修羅たちは、矢を射かけ刀で切り付けましたが、矢も刀も花となって散り落ちてしまいます。
 たった一人の若い修行者が、数知れぬ阿修羅たちに攻めたてられている様子を見たロムサイソーは胸を痛めました。この気高い修行者に、静かに冥想をさせてあげたい。どうすればいいのだろう。
 ロムサイソーは気づきました。修行者を阿修羅たちの目から隠してしまえばいいのです。
 ロムサイソーは長く豊かな髪の持ち主でした。近くの池に行き、髪を水につけ、池の水を含ませました。
 ロムサイソーが登場するほかの伝説では、海水を髪に含ませて海を干上がらせ、ワニたちを退治したとあります。彼女の髪には大量の水を吸い込む力があるのです。
 ロムサイソーは立ち戻り、菩提樹のもとに坐している修行者のまわりで髪を絞り水の壁を作りました。きらきらと輝く壁に遮られて、阿修羅たちは修行者の姿を見失いました。
 静かになった菩提樹の下で、修行者は深い瞑想に入りました。
 アンコール遺跡の女性像の中に、蓮の華の上に立って、髪を両手で絞っている少女のレリーフがあります。ロムサイソーです。髪から絞り出した水で、若い修行者の周りに水の壁を作っているところです。
 ゴータマ・シッダールタはこののち悟りを開いて釈迦牟尼仏となり、多くの人々を救いました。
 この物語は、私が学んだ仏典のなかでは見たことがありません。おそらくアンコール地方に仏教が伝来する過程で生まれた物語だろうと思います。
 アンコール遺跡の女性像の中でも、もっとも質素な少女が、大きな物語の主人公だったわけです。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成25年2月号に掲載)