【随筆】−「日本建命と弟橘姫命」               浪   宏 友


 日本建命(ヤマトタケルノミコト)は、景行天皇の子供です。少年の頃から勇猛で荒々しい性格をしていました。
 その頃九州で勢力をふるっていた熊襲(クマソ)兄弟は、天皇の言うことを聞こうとしませんでした。そこで景行天皇は、日本建命を熊襲征伐に差し向けました。
 日本建命は美少年でした。警戒厳重な熊襲に対して一計を案じ、美少女に扮装して単身熊襲の酒盛りにもぐり込み、機会を見計らって熊襲兄弟を倒しました。
 熊襲を討伐して帰って来た日本建命に休む間も与えず、景行天皇は、東の方にある十二の国を平定してくるようにと命じました。
 日本建命は、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を訪ね、父である天皇は休むことさえさせてくれないと訴えました。叔母は日本建命を優しく慰めながら剣を一振り与え、また、危急のときに開けなさいと、袋をひとつ渡しました。
 東に向かった日本建命は、相模の国に入りました。相模の国の人々は、日本建命に、この野の中に沼があります。この沼に住む神はものすごく凶暴な神ですと告げました。日本建命は、その神を見てみようと、その野に入りました。
 日本建命が野に入ると、相模の国の人々は野に火を放ちました。焼き殺そうというのです。だまされたと気づいたときは、もう火が迫っていました。
 そのとき、危急の時に開けなさいと言って叔母が渡してくれた袋を思い出しました。袋を開くと、火打ち石が入っていました。
 日本建命は、叔母がくれた剣を抜き放ち、周囲の草を刈り取ると一カ所に積み上げ、火打ち石で火をつけて燃やしました。周りに草が無くなりましたので、炎が迫っても焼かれることはありませんでした。
 相模の国の人々は、日本建命は火に巻かれて焼け死んだに違いないと酒盛りをしていました。そこに、怒りに燃えた日本建命が軍勢を引き連れて攻め入り、慌てふためく人々をすべて倒してしまいました。
 日本建命はさらに進んで海岸に出ました。三浦半島の走水あたりです。ここに立って海を見ると、向こうに房総が見えます。
 ここは浦賀水道の中でも、潮流の変化が激しいところです。満ち潮のときは外海から東京湾に向かって潮が流れ込みます。引き潮のときは逆に潮が流れ出します。潮の変わり目は流れが弱くなりますが、上げ潮引き潮のピークにはかなりの速さになります。こうした潮の流れに由来して、この地が走水と呼ばれるようになったのかもしれません。
 日本建命は船を仕立てて、房総に向かいました。ところが、海の神が荒波を立て、船は木の葉のように波に弄ばれて、先に進むことができません。このとき、船に同乗していた日本建命の后である弟橘姫命(オトタチバナヒメノミコト)が進み出て「私が海の神のもとに参ります。あなたは任務を成し遂げてください」と言いました。
 后は波の上に畳を幾重にも敷いて、その上に降りました。すると波はおだやかになり、船は先に進むことができました。
 后は波の上から日本建命に、あなたは相模の野の炎の中で私を気遣ってくださいましたと、歌で呼びかけながら、波間に沈んでいきました。
 国々を平定した日本建命が、奈良の都へ向かう途中、足柄峠のあたりから東のほうを見やりますと相模湾の向こうに走水のあたりが見えます。日本建命はたまらず「我が妻よ、我が妻よ」と叫んだのでした。
 后が入水してから七日目に、后の櫛が走水近くの海岸に流れ着いたので、陵をつくってその中に納めたと言います。
 今は、走水神社に日本建命と弟橘姫命が祀られています。二人の思い出の地で、憩いのときを送っているのですね。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成25年4月号に掲載)