【随筆】−「海辺の難所」               浪   宏 友


 新潟県糸魚川市にJR北陸本線の親不知駅があります。この近くの海岸線は切り立った崖になっています。崖の下まで降りると、岩肌に日本海の荒波が打ち寄せています。
 崖の下に大小の石が積み重なって、小さな浜が出来ています。この小さな浜に立ってその先を見ます。岩に打ちつけた波が引くと、崖の際に石の通路が顔を出します。ここを急いで通り抜け、向こうの小さな浜に走り込みます。ぐずぐずしていると次の波が来てしまいます。小さな浜から次の小さな浜へと何度も走り、やっとの思いで崖を通り抜け、急な斜面を登って、ようやく普通の道に出ることができるのです。
 こっちの村から向こうの村へ行くには、昔は、そうするしかありませんでした。村人たちや旅人たちは、実際にそういう苦労をしていたのだそうです。
 崖の上に作られた道路に自動車を走らせて来た私には想像もつかない話です。
 ここに平家にまつわる話が伝わっています。
 平家は壇ノ浦の戦いで滅亡しましたが、このとき平頼盛は助命されて、越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らすようになりました。
 頼盛の奥方は京都で夫の安否を気遣っていましたが、夫の所在を聞いて、子供と共に越後国を目指しました。途中、この難所を越えなければなりません。都で育った奥方には、恐怖の道だったにちがいありません。
 奥方が幼い子供と共に崖の下を歩いていたとき、大きな波に襲われました。奥方は必死に岩にしがみついて耐えましたが、子供は波にさらわれてしまったのです。ようやく難所を越えた母親が、海に向かって子供を呼びましたが、どこにも姿がありませんでした。母親は悲しみの中で歌を詠みました。
  親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く
 それからここを親不知と呼ぶようになったと伝えられています。
 海沿いの難所といえば、私は、千葉県勝浦市のおせんころがしを思い出します。海から切り立った岩の上を通る細い道です。
 ここにはおせんという娘にまつわる悲しい物語が伝えられています。伝説はいくつかありましたが、ここではその中のひとつをご紹介したいと思います。
 おせんの父は土地の豪族で、強欲な男でした。過酷な年貢の取り立てに苦しみ続けていた領民たちは、とうとう、領主を殺害しようと密談をするようになりました。
 ある日、おせんの父が一人で用向きに出かけました。この用で出かけたときは、いつも帰りが遅くなります。帰りには必ずあの難所を通ります。これを知った領民たちは、今夜こそと誘い合って、難所の近くに身を隠して待ちました。
 人影が現れました。暗がりで顔などは分かりませんが、この時刻にこの場所を通るのは領主以外には考えられません。領民たちは人影を襲い、断崖から突き落としてしまいました。あまりにもあっけなくて、違和感を覚えた者もありました。
 翌朝。領主が、おせんを見なかったかと尋ね歩いていました。あの男たちは、領主が生きているのを見て仰天しました。まさかと思いながら崖下に降りてみると、そこには変わり果てたおせんの姿がありました。
 領民たちは、ことの次第をおせんの父に話しました。最愛のおせんを失った父は、怒りも忘れて、ただ嘆き悲しむばかりでした。
 おせんは父親の身代わりになるために、わざわざここを通ったのだと人々はささやき合いました。このささやきがおせんの父の耳にも届き年貢の取り立てが緩やかになりました。
 やがてこの難所はおせんころがしと呼ばれるようになりました。いつだれが建てたのでしょうか、今も地蔵尊が、悲しい物語を見つめています。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成25年9月号に掲載)