【随筆】−「高砂」               浪   宏 友


 時代劇で祝言の場面になると、必ずはじまる謡曲があります。
 「高砂や この浦船に帆をあげて……」
 この謡曲がどういうものなのか、恥ずかしながら少しも知りませんでした。どうも気になりましたので、少し調べてみました。
 謡曲「高砂」のあらすじを見てみます。作者は世阿弥だそうです。
 肥後国(熊本県)の阿蘇の宮の神主である友成という人が、都見物に参りました。室町時代ですから都は現在の京都です。
 友成は船旅でしたが、途中、播磨潟の高砂の浦に立ち寄りました。兵庫県高砂市あたりだろうと思います。
 そこで、松の木の下で落ち葉を掃き清める老夫婦に出会いました。謡曲では、尉(じょう)と姥(うば)となっています。
 友成が老夫婦に声をかけ、高砂の松はどれですかと尋ねますと、老夫婦は、いま掃き清めたこの松が、高砂の松ですと答えます。
 友成は続けて、高砂の松と住之江の松が相生の松と言われているのはなぜですかと尋ねました。相生とは夫婦ということです。夫婦なら寄り添っていそうなものなのに、兵庫の高砂と大阪の住之江では、随分遠くに離れていますねと疑問を呈しているのです。
 すると老夫婦が自分たちのことを話し始めます。尉は住吉、姥は高砂の者だというのです。住吉の読みは「すみよし」ですが、「すみのえ」と読んだ時代もあるようです。
 そんなに遠く離れているお二人が、ここで一緒においでになるのはどういうわけですかと、友成は老夫婦に尋ねました。すると、山川千里を隔てていても心が通じ合っているから、決して遠く離れてはいないのですよと、老夫婦は微笑むのでした。
 そして、われわれ老夫婦は、高砂の松の精と住之江の松の精なのですと自分たちの正体を明かしてくれました。高砂の松と住之江の松はやはり相生の松だったのです。
 老夫婦は、友成に、住之江においでください、お待ちしていますと言い残し、海士の小船で沖へと姿を消しました。
 友成は船に乗り込み、帆を上げ、船出をしました。船は明石海峡を通り抜け、鳴尾の沖を通り過ぎて、住之江に着きました。
 友成が住吉の松を訪れますと、尉が本来の神の姿を現して厳かに舞い始めました。ここが謡曲「高砂」のクライマックスです。「千秋楽は民を撫で 万歳楽には命をのぶ 相生の松風 颯々の声ぞ楽しむ」と、住吉の神の舞いが終わります。
 結婚式では「高砂や この浦船に帆をあげて この浦船に帆をあげて 月諸共に出で汐の 波の淡路の島陰や 遠く鳴尾の沖すぎて 早住の江に着きにけり 早住の江に着きにけり」と謡われます。
 この段は謡曲の前半と後半をつなぐ部分であり、お祝いの言葉も見当たらないのに、結婚式で謡われるのは何故でしょうか。少し調べてみましたが、どうもはっきりしません。そこで自分で考えてみることにしました。
 「高砂や、この浦船に帆を上げて……」と謡うのは、結婚式は船出だよと言っているのでしょう。これからの夫婦としての毎日が、船旅にほかならないのです。
 長い船旅には、順風満帆の日もあります。暴風雨や荒波を必死に耐える日もあります。さまざまなことがあるけれど、夫婦協力して乗り切りましょうと、励ます意味にも受け取れます。
 船が住之江に着くということは、夫婦として添い遂げることを言っているのかもしれません。だから神が祝いの舞を見せてくださるのです。
 「高砂」と題する人形があります。熊手を持った尉と箒を持った姥が、柔和な表情でこちらを見ています。苦しみも喜びも味わいつくした老夫婦の、穏やかな姿なのだなと、心和む思いがしました。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成25年10月号に掲載)