【随筆】−「水中からの仏さま」               浪   宏 友


 欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王から、日本の欽明天皇に仏像が贈られました。これが日本最初の仏像とされています。この仏像は、仏教に反対する勢力によって難波の堀に沈められてしまいました。そこを信州の本多善光が通りかかりますと、仏像が堀から飛び上がり善光の背中におぶさって、信州に連れて行けと告げたそうです。善光は仏像を信州にお迎えし、これを安置したのが善光寺の始まりとされています。水の中から現れた仏さまの第一号だと思います。この仏像は、現在は秘仏となっています。
 善光寺の仲見世通りに世尊院というお寺があります。土地の人は「釈迦堂」と言っています。ここに、銅製の釈迦涅槃像が安置されているからです。
 天延3年(975年)越後の居多ケ浜で漁をしていた漁師の網に大きな流木がかかりました。この流木の中から釈迦涅槃像が出現しました。釈迦涅槃像は居多ケ浜近くのお寺に安置されましたが、その後お告げがあって信州の善光寺に送られ、世尊院に安置されました。このような伝説があります。
 史実では、この釈迦涅槃像が造られたのは鎌倉時代であり、国の重要文化財に指定されています。居多ケ浜の伝説から200年以上も経ってから仏像が出来たわけです。伝説と史実の間に大きなギャップがありますが、誰もそんなことを気にとめていません。伝説と史実をそのまま受けとめて、違和感を感じていない様子です。
 奈良時代、奈良の長谷寺で、楠の大木から観音菩薩像が作られ、長谷寺の本尊として安置されました。そのとき、同じ楠からもう一体作られ、願いを込めて海に流されました。その観音像が何年かの後に三浦半島の海岸にたどり着きました。この観音像を本尊として建立されたのが鎌倉の長谷寺だという伝説があります。この伝説にも本当かなあと思うところがありますが、やはりそのまま受け取っておきたいと思います。
 広い海に流された仏像が、波に漂いながら仏・菩薩のみ心のままに、行き着くべきところに流れ着く。そういう物語をそのまま受け入れると、神秘に触れたような、おおらかな気持ちになるから不思議です。
 東京浅草の浅草寺の本尊は一寸八分の金色の観音像だそうです。この観音像は、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた兄弟の漁師が網を上げたところ、そこにかかっていました。この兄弟の主人が、自宅をお寺に改めて本尊として大切に供養したのが、浅草寺の始まりと言われています。
 浅草の観音像も現在は秘仏となっていて、お姿を拝むことはできません。
 網にかかった仏さまや、流れついた仏さまが多い中で、海の中から持ち帰った仏像のお話がありました。しかも、持ち帰ったのはあの浦島太郎でした。
 浦島太郎の父浦島太夫は三浦半島の住人でしたが、丹後国に赴任し、太郎も同行しました。そこの浜辺で太郎が亀を助け、乙姫の招きで竜宮に行きました。太郎が竜宮から帰るとき、乙姫から玉手箱と一緒に観音像を手渡されました。
 丹後国に戻った太郎は、様子がすっかり変わっていることに驚き、やむなく郷里の三浦半島に向かいました。その途上神奈川のあたりで両親の死を知った太郎は、そこにお堂を建てて観音像を祀り両親を弔いました。これが浦島寺の始まりだと言われています。
 この観音像は江戸時代には観福寺にあったのですが、火災などで廃寺となり、近くの慶運寺が観音像を引き継ぎました。慶運寺は横浜市のJR東神奈川駅近くにあり、浦島寺と呼ばれています。
 このように、水の中から尊い仏像が現われたという伝説は少なくありません。人間の手が届かない神秘な世界が、人びとの信仰心を掻き立てるのかもしれません。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成26年1月号に掲載)