【随筆】−「実録 稲むらの火」               浪   宏 友


 平成23年(2011年)3月11日に東日本を襲った大津波には、大きな衝撃を受けました。津波が来たら、とにかく高いところへ逃げるほかはない。この言葉の意味が長野に暮らす私にもひしひしと感じられました。
 思い出したのが「稲むらの火」の話です。小泉八雲が著し、中井常蔵が書き改めて、尋常小学校の読本にも掲載された薫り高くて感動的なお話です。
 私は長らく人間と人間関係を研究してきましたが、その観点から見ると、少しばかり不自然さを感じるところがあります。稲むらの火を見ただけで、若い男性ばかりでなく、女性も、老人も、幼い子供たちまでも、高台に上ってきたことです。また先に駆け上がってきた若い男性たちが、津波に気づいて、村人たちの救助に取って返したという記述がないところもちょっと気になります。
 そんなうるさいことを言う必要はありますまい。テーマを際立たせるために、省略やデフォルメがなされているだけです。物語に描かれた、庄屋を中心とする村人たちの深い絆に、私たちは感動してしまうのです。
 この「稲むらの火」には、モデルがあることはご承知だと思います。
 江戸時代の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、大地震が発生し伊豆から東海沿岸を大津波が襲いました。安政東海地震です。その32時間後に再び大地震が発生し、近畿、四国、九州東岸に大津波が押し寄せました。安政南海地震です。
 嘉永7年11月27日から安政元年になったので、安政大地震と呼ばれています。  紀州広村(現在の和歌山県広川町)の有力者浜口梧陵(はまぐちごりょう)の手記と伝えられる文書に、そのときの様子が綴られています。
 この日、午前10時に強い地震がありました。海岸に急いだ梧陵は、海面の様子にただならぬものを感じました。そこで村人たちに声をかけ、老人、子供たち、女たちを高台の八幡さまの境内に行かせました。
 梧陵が、男たちと海岸に出てみると、潮の動きが激しく、異常を感じました。
 翌日、海面は平常に戻り、何事もなかったので、みんなそれぞれの家に帰りました。
 ところが午後に、村人から井戸水が異常に少なくなっていると報告がありました。
 これはただ事ではないと思っていると、夕刻、昨日よりもはるかに大きな地震が起きました。海を見ると、沖合に真っ黒な長い堤防でも築いたような様子が見えました。
 間違いない。大津波だ。梧陵は人々に声を掛け、男たちを励まし、逃げ遅れているものを助けながら高台に向かいました。
 家が流されたと叫ぶ者があり、見ると広川を津波が上ってきます。人家が崩れていくのが見えます。そうこうするうちに足元に潮が押し寄せてきました。梧陵は浮きつ沈みつしながらようやく高台に漂着したのでした。
 八幡さまの境内には、多くの村人たちが避難して、家族の無事を確かめ合っています。
 まだ、逃げ切れない者がありそうなので、屈強な男たちに松明を持たせて様子を見に行かせましたが、流木などがあって村まで下りることができません。
 梧陵は男たちに命じて道端の稲むらに火をつけさせました。
 高台をめざしていた人々は、この稲むらの火を見て勇気づけられ、八幡さまの境内にたどり着くことができました。
 しばらくすると、さらに大きな津波が襲ってきて、火をつけた稲むらが、さらわれていくのが見えました。
 浜口梧陵の手記はここで終わっています。こうした努力の甲斐あって、広村の9割以上の人々が、命を救われたということです。
 あまりにも凄まじい話に圧倒されながら、浜口梧陵のリーダーシップに、改めて深い感動を覚えました。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成26年3月号に掲載)