【随筆】−「弁天さま」               浪   宏 友


 ずっと以前のことですが、当時私が住んでいた家の近くに林があって、弁天池がひっそりと淀んでいました。池のほとりに古びた小さな祠がありました。弁天さまが祀ってあったのかもしれません。
 弁天さまの名前をもつ池や湖が日本の各地にあるようです。そのほかにも、弁天川があります。弁天橋が架かっています。海には弁天島や弁天岩もあります。
 弁天さまは船舶の名前として人気があるようです。遊覧船、釣り船、調査船、漁船などに弁天丸の名前を見たことがあります。物語や漫画の中でも、弁天丸という船がしばしば活躍しています。
 弁天さまは水と関係の深い神さまだそうですから、水と関係の深いものに弁天さまの名前がつけられたのだろうと思います。
 そう考えていましたら、水とはさして関係がなさそうなものにも、弁天さまの名前がついていました。弁天通りがありました。弁天町がありました。公園の名前。駅の名前。店の名前。いくらでも出てきます。
 徳島県徳島市方上町(かたのかみちょう)に面白い山がありました。自然の山としては日本一低い山だとか。標高6.1mとなっていました。名前が弁天山で、山の頂上に弁天さまが祀ってありました。おそらく土地の旦那衆が相談してお宮を建てたのだろうと推察しています。日本一低いことと弁天さまとは何の脈絡もないと思うのですが、お稲荷さんでもなく、八幡さまでもなく、弁天さまを選んだ心持ちは何だったのか、聞いてみたいなと思います。
 ついでながら、築山(ちくやま)では、日本地理院の一等三角点がある日本一低い山として大阪府堺市堺区にある蘇鉄山が6.84m、二等三角点のある日本一低い山として大阪市港区にある天保山が4.53mとなっていました。
 歌舞伎好きの人が弁天と聞けば、弁天小僧菊之助が思い浮かぶのではないでしょうか。浜松屋見世先の場での「知らざあ言って聞かせやしょう」から始まる台詞とか、稲瀬川勢揃の場での「さてその次は江ノ島の岩本院の稚児上がり」から始まる台詞は有名です。岩本院は江の島にあって、弁天さまをお祀りしている由緒ある寺院でした。
 大きな寺院では、剃髪しない少年が僧と一緒に修業を積んだり、大人の僧の身の回りの世話をしたりする例があったそうで、この少年たちを稚児と言いました。その一人であった菊之助が大盗賊となり、岩本院にちなんで弁天小僧と二つ名を持ったというわけです。
 娯楽時代劇には、しばしば弁天○○と名乗る女賊が登場します。
 漫画の「うる星やつら」では、弁天と名乗るお転婆娘が暴れまくっていました。
 弁天という名前がこんなにも気楽に、こんなにも広く使われていることに改めて驚きました。弁天人気絶大です。
 こんなにも親しまれ慕われている弁天さまとは、そもそも何者なのでしょうか。
 「弁天」は本当は「弁才天」または「弁財天」です。もともとは「弁才天」だったのですが、ある時期から「弁財天」が登場し、現在は、どちらかといえば「弁財天」のほうが多く使われているようです。
 古くから日本の為政者たちは、「法華経」「仁王経」「金光明経」を護国三部経として信奉してきました。この「金光明経」(『金光明最勝王経』)に大弁才天女という女神が登場しますが、ここでは水の神さまではなく言葉の神さま、弁舌の神さまです。
 やがて弁才天女は金光明経から飛び出して庶民の間に広がり、弁天さまと愛称で呼ばれるようになりました。
 今では、弁天さまが神さまであることも半ば忘れられているように見受けられます。それほど生活の中に溶け込んでしまったということなのでしょう。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成26年4月号に掲載)