【随筆】−「吉祥天女」               浪   宏 友


 欽明天皇の時代に日本に伝わった仏教は、推古天皇の摂政であった聖徳太子によって、国家経営の基とされました。
 推古天皇から100年ほど後に即位した聖武天皇は、仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の建立の詔をくだしました。
 国分寺の総本山として東大寺を建立し、盧舎那仏の造立を発願。困難を乗り越えて開眼供養をするに至りました。現在の奈良東大寺の大仏です。
 聖武天皇は、国分寺に塔を建て『金光明最勝王経』を安置することも定められました。国家繁栄の教えを説くこのお経に深く帰依していたことが窺われます。
 この『金光明最勝王経』に、古代インドで人々に信奉され、仏教に取り入れられた神々が登場します。帝釈天。梵天。四天王。夜叉たちやそのほかの神々もいます。この中に大弁才天女と大吉祥天女がいました。
 吉祥天女は、もともと、古代インド神話の女神ラクシュミーです。ラクシュミーの誕生には、壮大な物語が関係しています。
 神々も悪魔たちも、不死の飲料アムリタを手に入れたいと思いました。神々と悪魔たちは協力して、高い山を根こそぎ引き抜き、海まで運び、亀の王の背に乗せました。竜王の長い胴を山に巻き付け、頭のほうを神々が、尻尾のほうを悪魔たちが引っ張って山をぐるぐるまわし、海を撹拌しました。
 撹拌された海から、太陽と月が生まれました。数々の宝物が出現しました。最後に神々の医師が不死の飲料アムリタを入れた白壺を持って現われました。
 神々と悪魔たちは、アムリタを巡って熾烈な戦いを繰り広げ、最後は神々のものとなりました。有名な乳海撹拌の伝説です。
 ラクシュミーは、このときに海から出現した宝女でした。ヒンドゥー教では、美と豊穣と幸運を司る女神として信仰されています。
 その後ラクシュミーは、乳海撹拌の音頭を取ったヴィシュヌ神(毘沙門天)の妃となりました。
 この吉祥天女の絵姿が奈良の薬師寺に残されています。三日月眉にふくよかな頬、きらびやかな衣装を重ねてゆったりと立つ気品のある貴婦人像です。左手に宝珠を載せ、頭部に円形の光背が描かれている、繊細で優美な仏教絵画です。この吉祥天像は光明皇后を写したものと伝えられています。
 光明皇后は聖武天皇の后で、仏教に深く帰依していました。
 光明皇后は、国分尼寺の建立に力を尽くしました。国分尼寺の総本山を法華寺としたのは、女人成仏を説く妙法蓮華経への帰依の念が深かったからだろうと思います。
 皇后は福祉にも力を入れています。皇太子妃時代に悲田院を設けて貧しい人たちを救済しました。皇后となってから施薬院を作り、薬草を集め、病者に施しました。
 有名な伝説があります。
 光明皇后は、法華寺にから風呂をつくり、千人の身体を洗うという誓願を立てました。
 皇后は、から風呂で病人たちの身体を洗いました。毎日毎日心を込めて九百九十九人まで洗い終りました。そして千人目になったとき、全身が爛れた病人が入ってきたのです。
 皇后は一心に洗い流しました。ところが、洗っても洗っても綺麗にならないのです。
 病人は皇后に言いました。洗っても駄目なら、口で吸い取ってくれ。
 皇后はさすがにたじろぎましたが、意を決して口で爛れを吸い始めました。すると病人の身体が輝き始め、阿 如来(あしゅくにょらい)が姿を現し、皇后を讃えたのでした。
 法華寺には、光明皇后を写したといわれる観世音菩薩像があります。
 お姿も美しく、優しさ、賢さ、強い意思を兼ね備えた行動的な光明皇后は、人びとの目には観世音菩薩とも見え、吉祥天女とも見えたのにちがいありません。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成26年7月号に掲載)