【随筆】−「厳島」               浪   宏 友


 宮城県の松島、京都府の天橋立、広島県の厳島は、江戸時代から日本三景と称せられる名勝で、いずれも海浜の風景です。
 松島、天橋立は、自然が生みだした芸術、厳島は、人びとの信仰が生みだした芸術・文化ということになるでしょうか。厳島神社では本殿など主要な建造物の多くが国宝や重要文化財に指定され、またユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
 今から1400年ほど前、この島の有力者であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が神託を受けて、厳島神社を創建し初代の神主になったとされ、その説話が伝わっています。
 天竺(てんじく、インドの旧名)の東城国の善哉王(ぜんざいおう)は、代々王家に伝わる扇に描かれた吉祥天女に恋をしてしまいました。これを心配した臣下が「吉祥天女は今は居ません。それよりも西城国の三番目の姫である足引宮が天下一の女性です」と申し上げます。善哉王は、西城国へ行き、足引宮と契りを結び、共々東城国に帰ります。
 東城国の宮廷の女たちは美しい足引宮に嫉妬します。宮廷の女たちは病気をよそおい、善哉王に薬草を採ってきてくれと頼みます。その地は往復12年もかかる遠方でした。
 善哉王が出かけますと、女たちは兵士に命じて、足引宮を深山に連れ出し殺させます。そのとき足引宮は身ごもっていました。宮は兵士たちに頼み、まだ月足らずでしたが、王子を出産してから首を討たれました。命を落としながらも足引宮は乳を出し続け、王子を育てました。
 12年の後、善哉王が薬草を持って帰りますと、足引宮がいません。事情を知った善哉王が山を尋ね、12歳に成長した王子と出会います。善哉王は王子と共に足引宮の遺骨を抱えて不老上人を訪ね、足引宮を蘇生してもらいました。三人は、不老上人の投げた剣に導かれて、シャカラ国に落ち着きました。インド神話に出てくる八大龍王の一人、シャカラ龍王の国だろうと思います。
 ここから話は唐突な展開をします。
 善哉王は、その地で、他の女性に心を移してしまったのです。傷心の足引宮はひとり旅立ち、日本の安芸に向かいます。
 佐伯鞍職は、天皇に仕える身でしたが、重大な過ちを犯したと讒言され、安芸に流されていました。
 佐伯鞍職が厳島の海岸に立っていると、紅帆の舟が現われました。足引宮の舟です。足引宮は、佐伯鞍職に、自分は弁財天であると名乗ります。佐伯鞍職は、言われるままに、社殿を造って弁財天を祀りました。これが厳島神社の始まりであるという説話です。 厳島神社の祭神は宗像三女神(むねちかさんじょしん)の田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)です。市杵島姫は弁財天であるとされています。足引宮・市杵島姫・弁財天が、ここで習合したようです。
 「厳島(いつくしま)」の語源を尋ねましたら、二つありました。ひとつは、身心を清浄にして神さまにお仕えすることを「斎(いつ)く」と言いますので、そこから「斎(いつ)くしま」になったという説です。もうひとつは、祭神の中心が市杵島姫であることから「いちきしま」から「いつくしま」になったという説です。
 一地方の豪族の祭神であった厳島神社が、広く信仰されるようになったのは、平家との結びつきによるものです。
 若き平清盛が安芸国の国司に任ぜられたとき、厳島神社の神主であった佐伯景弘(さえきかげひろ)と親しくなり、厳島神社を信仰するようになりました。平清盛が政治の実権を握るようになると厳島神社は大きくなり、平家一族の氏神となりました。
 平家は滅亡しましたが、厳島神社はその後も人々の崇敬を受け続け、現在では、日本三大弁財天のひとつとされています。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成26年11月号に掲載)