【随筆】−「宇賀神伝説」               浪   宏 友


 東京都三鷹市井の頭に、井の頭公園があります。私も何度か散策したことがあります。
 公園の中心は井の頭池です。豊かな湧水があり、ここから神田川が流れ出しています。
 井の頭池の西の端に小さな島があって、弁天堂が建っています。お堂の正面に「辨財天尊」の額が掛けられています。祀られているのは八臂の宇賀弁財天で秘仏だそうです。ここに伝説がありました。
 昔、北沢の松原に、子宝に恵まれない長者夫婦がいました。長者夫婦は井の頭の弁財天に出かけて願をかけました。
 東京都世田谷区に北沢という地区があり、近くに松原という鉄道の駅が見えます。ここから井の頭弁財天までは、徒歩なら二里(約8キロメートル)ほどの距離です。
 長者夫婦の願いがかなって、女の子を授かりました。ただ、この子の首筋に三枚の鱗があるのが不思議でした。女の子はすくすくと育ちました。
 女の子が十六歳になったとき、親子三人連れだって、井の頭の弁天さまにお礼をしようと出かけました。
 ところが、井の頭の池に着いたとき、娘が池に向かって立ち尽くしたまま動かなくなってしまったのです。両親がどうしたのかと訊ねますと、娘は両親に言いました。「私はこの池の主の化身なのです」
 驚く両親に「今まで育ててくださって本当にありがとうございました」と礼を言って、娘は池に飛び込んでしまったのです。慌てる両親の目の前で、娘はたちまち白蛇に姿を変え、別れを告げるかのように池の上を一回りして、そのまま水底に潜ってしまいました。両親は、残った波紋をただ茫然と見つめるばかりでした。
 我に返った両親は、娘の首筋の三枚の鱗を思い出し、娘は宇賀神さまの化身であったのかと得心しました。宇賀神は人頭蛇身の神さまです。ほどなく両親は宇賀神の像を造って弁天堂の脇に祀り、娘を偲んだのでした。
 栃木県佐野市出流原(いずるはら)町の出流原弁天池にも伝説があります。
 ある年、この地方がひどい旱魃にみまわれました。田んぼという田んぼがひび割れ、井戸という井戸が涸れ果て、人が飲む水さえ手に入らなくなる始末でした。
 村人たちは天を仰ぎ、この上は龍神さまに雨乞いするしかないと話し合いました。
 人々は磯山の麓に集まり、太鼓を打ち、鐘を叩き、大声で空に呼びかけながら、二日二晩祈り続けました。声は嗄れ、太鼓や鐘を打つ男たちの手の皮は剥け、太鼓も破れてしまいました。しかし、空には雲のひとかけらも出てこなかったのです。男たちは座り込み、世話をしていた女たちもうずくまりました。
 あれは何だ。一人が気づいて指さす先に、白い影がありました。疲れ果てた目でぼんやり見ていると、長く白い髭を生やし白い布を身にまとい杖を突きながら老人が歩いてきました。老人は、へたり込んでいる人々に声を掛けました。私についてきなさい。
 何のことか分かりませんでしたが、人々はやっと立ち上がり、老人の後についていきました。老人はあるところで立ち止まり、人々に言いました。ここを掘りなさい。
 人々は道具を持ち寄って言われたところを掘りました。しばらく掘り続けると土が湿ってきました。人々は顔を見合わせました。水だ、水が近いぞ。人々は夢中になって掘り進みました。突然、水が噴き出してきました。人々は水を体中に浴びながら、狂喜乱舞しました。ようやく興奮から醒めて、老人を探しましたが、もうどこにもいませんでした。
 この湧き水は、やがて池となり、弁天池と呼ばれるようになりました。
 あの老人は、宇賀神だったのかもしれません。宇賀神なら、弁天さまと一体の神さまですから、この池が弁天池と呼ばれても不思議はありません。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成27年2月号に掲載)