【随筆】−「不忍池」               浪   宏 友


 東京上野の上野恩賜公園の丘陵地一帯は、上野の森とか上野の山と呼ばれていますが、古くは忍岡(しのぶがおか)と呼ばれていました。その南東に不忍池(しのばずのいけ)があります。「忍」と「不忍」が並べられているところをみると、何かいわくがありそうですが、はっきりしたことはわかりません。江戸っ子特有の洒落っ気が付けた名前なのかもしれません。
 不忍池に小さな島があり、中之島と呼ばれています。池の山側の岸と中之島を結ぶ石橋が天龍橋です。天龍橋を渡ると正面に弁天堂があります。縁日でもないのに露店が並び、多くの人で賑わっています。
 お堂に入りますと、真ん中に下がっている赤い大提灯に、太く大きな文字で「大辯才天尊」と書いてあります。
 礼拝をしていますと、若いお坊さまの姿が見えました。お願いして畳敷きに上げていただきました。
 畳敷きの中央に正座して正面を見ますと、金色の扉の前に像が見えます。暗い中に円形の光背と右手に持っている剣が、金色に光っていますが、顔も身体も真っ黒なシルエットです。頭上に鳥居が見えますから、宇賀弁財天であることが分かります。伝聞によれば、ご本体は秘仏でこの像はお前立だそうです。
 畳敷きの天井を見上げますと、龍が悠々と見下ろしています。日本画家児玉希望画伯の筆になる大きな龍です。周囲には、美しい花々の絵が、堂内を飾っていました。
 外は賑やかな弁天堂ですが畳敷きは静謐です。ゆっくりと礼拝させていただきました。
 三代将軍徳川家光の世に、天海僧正によって、東叡山寛永寺が建てられました。
 徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍に、師としてまた相談役として仕えた天海僧正が、徳川幕府の安泰と、万民の平安を祈願するために、江戸城の鬼門(東北)にあたる忍岡の台地に、寛永寺を建立したと伝えられています。寛永寺の山号は東叡山です。比叡山延暦寺と関わりの深い天海僧正が、東の比叡山という意味でつけたのだそうです。忍岡が上野と呼ばれるようになったのはこの頃からだと言われています。
 寛永寺の中心は丘陵に建つ根本中堂です。周辺にはさまざまな堂が建ち、塔が造られています。弁天堂もそのひとつです。
 比叡山の麓には琵琶湖があって竹生島が浮かんでいます。竹生島には弁財天が祀られていて、天皇をはじめ時の権力者・有力者の崇拝を受けてきました。
 天海僧正は、忍岡を比叡山に、不忍池を琵琶湖に見立てました。不忍池に島を作って竹生島になぞらえ、弁天堂を建てて竹生島の弁財天を勧請したのだそうです。天海僧正の思い入れの深さが窺われます。
 礼拝を終えて堂を出ますと、大黒天のお堂が見えました。日本では、大黒天と弁財天は関わりの深い神さまです。
 七福神と言えば恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋尊・福禄寿・寿老人ですが、ここに弁財天と大黒天がいます。
 大黒天・毘沙門天・弁財天は、もともとインド由来の神さまです。この三神をひとつにした三面大黒と呼ばれる像があります。正面に大黒天、右手側に毘沙門天、左手側に弁財天。三体の天が一つの身体につながっています。豊臣秀吉の守り本尊だったそうです。
 弁天堂に祀られている像は八臂の宇賀弁財天です。琵琶は持っていません。琵琶を持つのは二臂の妙音天です。しかし、弁財天といえばやはり琵琶がなくてはならないのでしょうか。お堂の前に大きな琵琶が建っていました。弁天堂の周りには、大小さまざまな記念碑やら祈願の碑やらが建てられています。眼鏡の碑、包丁の碑、駅伝の碑などなど。あの大きな琵琶も碑の一つのようです。
 江戸時代初期に天海僧正の建てたお堂は、平成の現代も明るく賑わっています。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成27年3月号に掲載)