【随筆】−「クレオパトラの天体図」               浪   宏 友


 古代エジプト第19王朝の初代ファラオはラムセス一世です。その息子のセティ一世がファラオとなったのは、紀元前1294年でした。
   ルクソールの王家の谷にセティ一世の墓があり、その天井に帯状に描かれた表のような図があります。10日ごとに36に分かれ、それぞれの区切りに星座が描かれ、神々が配されています。10日の区切りが36ですから360日。これに特別な祭祀を執り行う日を5日加えて365日、1年です。
   これは古代エジプトの暦で、天体観測に基づいて作られたものです。
   マケドニアのアレキサンドロス大王がバビロンで病死した後、大王の将軍であったプトレマイオスがエジプトに入り、ファラオとなりました。紀元前305年のことで、セティ一世からほぼ1000年後です。
   そのころエジプトで用いられていた暦は、セティ一世の墓にあるものとほぼ同じだったようです。
   それほど歴史が古い暦ですが、大きな問題を抱えていました。4年ごとに1年の日数が366日になることを知りながら、閏年を作ることが出来なかったのです。宗教上の理由からだといいます。推察するに、それぞれの日をそれぞれの神に割り当ててしまったために、動かすことができなかったのではないでしょうか。
   しかし、これでは不便なので、神官たちは閏年のある暦を作って使っていたそうですから、なんとも、ややこしい話です。
   紀元前246年にファラオとなったプトレマイオス三世は、民間の暦と神官の暦という二重の暦を、神官の暦に統一しました。マケドニアの将軍の血を引くプトレマイオス三世でしたから、エジプトの宗教に縛られなかったのかもしれません。
   時代が下って、プトレマイオス十二世の娘クレオパトラ七世が生まれました。世界三大美女の一人に数えられるクレオパトラです。クレオパトラは、父の遺言によって弟のプトレマイオス十三世と結婚、共同統治が始まりました。これはエジプトの古い風習による名目上の結婚でした。
   幼い弟の後見人たちは、弟を利用して、姉クレオパトラを宮廷から追放しようとしましたが、ローマの将軍カエサルがクレオパトラの後ろ盾となったために失敗し、弟は戦いの中で落命しました。
   カエサルとの間に一子を設けたクレオパトラでしたが、カエサルがローマで暗殺された後、波乱万丈の日月を経て、ついにローマとの戦いに敗れ、黄金の寝台で、胸をコブラに噛ませて生涯を閉じました。
   エジプト中部の町デンデラに、女神ハトホルを祀る神殿があります。神殿の壁にクレオパトラと息子カエサリオンを表わすレリーフが彫られています。
   ハトホル神殿の一室の天井に2m四方ほどの天体図があります。クレオパトラが女王となった翌年に作ったものとされ、クレオパトラの天体図と呼ばれています。ただし、神殿にあるのはレプリカで、本物はパリのルーブル美術館に展示されています。
   天体図は、画面いっぱいの円形の天空を4柱の女神が支えています。中央は北方の空、その周囲に南方の星座が描かれそれぞれの星座に神々が配されています。その数は36柱で、クレオパトラから1200年以上も前のセティ一世の墓の天井に描かれた神々の数と同じです。
   クレオパトラがエジプトの女王となったとき、後ろ盾となったカエサルは、エジプトの暦が優秀であることに気づきました。
   カエサルは、エジプトの学者をローマに招いて新しい暦をつくらせました。これがユリウス暦です。その後、ユリウス暦をもとにグレゴリオ暦が作られ、現代の世界標準の暦へとつながっていきました。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成27年8月号に掲載)