【随筆】−「ユリウス暦」               浪   宏 友


 「賽は投げられた」と激を飛ばしてルビコン川を渡ったユリウス・カエサルは、脇目も振らずにローマに攻め上りました。カエサルの勢いに恐れをなした政敵ポンペイウスと元老院はイタリア半島から逃れ、ギリシャに向かうほかありませんでした。
 イタリア半島を掌握したユリウス・カエサルは、ポンペイウスを追ってギリシャに入りました。政敵との戦いは一進一退、一時、カエサルは窮地に追い込まれましたが、巧みな戦術でついに勝利を収めました。
 戦いに敗れたポンペイウスはギリシャを脱出してエジプトに向かい、エジプトの都アレクサンドリアに上陸しようとしました。そのときエジプトのファラオの側近に殺害されてしまったのです。カエサルがエジプトに入ったのはその数日後でした。
 当時、エジプトでは、ファラオの座を巡って、クレオパトラ7世と弟のプトレマイオス13世が争っていました。
 両者の仲介を考えていたカエサルの前に、カエサルへの贈り物として届けられた絨毯の中からクレオパトラが転がり出て、カエサルの前に立ちました。こうでもしなければ、プトレマイオス13世の軍の警戒を潜り抜けることができなかったのです。
 カエサルとクレオパトラの出会いに危機を感じたプトレマイオス13世が、カエサルの軍に攻撃を仕掛けたため、カエサルは、クレオパトラの側に立つことになりました。カエサルが差し向けたローマ軍によって、プトレマイオス13世は死に追いやられます。
 カエサルは、この後しばらくギリシャに留まり、クレオパトラによって一子カエサリオンを儲けました。
 ユリウス・カエサルは、エジプトですぐれた暦に出会いました。
 それまでのローマは、太陰太陽暦が用いられていたために、暦と季節にずれが生じ、調整するのが困難でした。
 また、征服した各地で、それぞれ独自の暦が用いられていたために、ますます混乱してしまいます。カエサルは全体を統治するためには、共通する暦が必要であると痛感していました。
 カエサルがエジプトで出会った暦は、恒星シリウスの動きをもとにしてつくられたもので1年の日数は365日、4年に1度の閏年は366日で、季節とのずれも生じません。
 カエサルは、エジプトから暦学者ソシゲネスをローマに招き、エジプトの暦を改良した暦を新しく作らせました。
 こうして出来た太陽暦を採用し、自分の権威の及ぶところにこの暦を使うように命じました。ユリウス・カエサルが制定したこの暦をユリウス暦と言います。カエサルは、ユリウス暦を制定した1年後に暗殺されました。
 その後、アウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任しました。
 カエサル亡き後も、ユリウス暦は引き続き用いられました。ところが、どういうわけか4年に1度とするべき閏年が、3年に1度となってしまったのです。
 このことに気付いたアウグストゥスは、暦を本来のありかたに戻しましたが、そのとき8月の名称を自分の名に変更しました。
 なぜ8月なのでしょうか。
 1月から6月までは、神の名が付けられていましたから、これを変えるわけにはいきません。7月は、ユリウス・カエサルの名が付けられていましたから、これも手がつけられません。8月から12月までは、単に「何番目の月」と呼ばれていましたから変えても大丈夫だったのです。こうして、7月がジュライ(ユリウスの英語名)、8月がオーガスト(アウグストゥスの英語名)となりました。人間の名前が月の名前になっているのはこの二人だけです。
 ユリウス暦はその後16世紀に、グレゴリオ暦へと発展します。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成27年9月号に掲載)