【随筆】−「グレゴリオ暦」               浪   宏 友


 ローマも昔は太陰太陽暦を使っていたようですが、紀元前46年にユリウス・カエサルが、エジプトで使用されていたシルウス暦をもとに、太陽暦を作りました。この暦は、ユリウス暦と呼ばれています。カエサルが暗殺された後も、ユリウス暦はローマを中心に広く使われ続けました。
 キリスト教の伝統的な祝祭日と言われて私が思い浮かべるのは、12月25日のクリスマスです。キリストがベツレヘムで誕生した日を祝う降誕祭です。
 キリスト教を信奉する人から話を聞くと、降誕と同じように、あるいはそれ以上に重大な出来事が、キリストの復活だと言われます。
 福音書によれば、キリストが十字架に架けられ埋葬された後、3日目に女性たちが墓をたずねますと、墓は空になっていました。そして女性たちは天使から、キリストが復活したことを伝えられます。それから各地で、弟子たちの前にキリストが現われるのでした。
 キリストの復活の意味や意義は、門外漢の私にはよく分からないのですが、キリストを信奉する方々にとっては、この上なく重要な出来事であるにちがいないのです。ですから、キリストの復活を祝う復活祭は、きわめて重要な祝祭なのです。
 復活祭の日取りは、西暦325年の第1ニカイア公会議で「春分の後の最初の満月に次ぐ日曜日」と決定されたそうです。ただ、時差の関係で春分の日が場所によって異なってしまいます。これではいけないので、春分は3月21日と定めました。実際の春分の日がいつであっても、3月21日を春分の日とするとしたのです。
 ローマ教皇グレゴリオ13世は、1572年に就任しました。ユリウス暦ができてから1600年以上を経過していました。
 現在の天文学によれば、1太陽年の日数は365.2422日です。ユリウス暦では、1年は365.25日とされました。この差は僅かに見えますが、年数が重なりますと、無視できない暦上のずれが生じます。このことに気付いて、警鐘を鳴らす人もいたのですが、修正することもなく、そのまま時が経過していきました。
 グレゴリオ13世の時代には、ユリウス暦の3月21日と、実際の春分の日との間に、10日程度のずれが生じていました。このほかにもさまざまな不都合が生じていましたから、カトリック教会では、教皇に、暦を改めて欲しいと要望しました。
 グレゴリオ13世は改暦を決意しました。然るべきメンバーを招集して委員会を作り、暦の研究を委託しました。
 この研究をもとにして、グレゴリオ13世は、ユリウス暦の1582年10月4日木曜日の翌日を、新しい暦の10月15日金曜日としたのです。10月5日から14日までの10日間を省略することによって、春分の日が3月21日になるようにしたのです。グレゴリオ暦がこうして始まりました。
 グレゴリオ暦は、カトリックの国にはすぐに広まりました。その後、多くの国々で採用されるようになりました。日本でも、明治時代からグレゴリオ暦に切り替えられています。
 宗教上の理由から、グレゴリオ暦を採用しない国もありましたが、現在では、宗教上の行事などには他の暦を使っている人びとの間でも、実用上はグレゴリオ暦を使っているようです。
 グレゴリオ暦が定着してからも、暦を変えようとする動きが、散見されるようです。
 一週間を5日とするソビエト革命暦が試みられたことがありました。フランス革命期に、合理性を追求して作られたフランス革命暦がありました。しかし、いずれも定着することなく、グレゴリオ暦に戻りました。
 グレゴリオ暦は、すっかり人びとの間に根付いて、現在では、世界標準の暦として使われるようになっています。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成27年10月号に掲載)