【随筆】−「日本の暦」               浪   宏 友


 第29代欽明天皇の頃、日本で使っていた暦は、中国から百済を通って日本に到来した元嘉暦(げんかれき)だったそうです。
 暦は毎年作らなければなりませんが、日本にはまだその能力がなく、百済から招いた暦博士に暦を作ってもらっていたようです。
 欽明天皇の皇女が第31代推古天皇となり、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として政治を行なわせました。
 推古天皇10年に百済から僧侶の観勒(かんろく)が来朝し、推古天皇が選んだ書生数人に暦法などを教えました。このおかげで、日本でも暦が作れるようになりました。
 政務を記録した書に「推古天皇の十二年正月戊申(つちのえさる)朔日に始めて暦日を用いた」という主旨の記録があるそうです。これが、日本人の作った暦が使われた最初の日となりました。日本人が作ったとはいえ、中身は中国の暦である元嘉暦でした。
 この年に憲法十七条が制定され、冠位十二階が用いられ始めています。暦を作る体制が固められたのも、こうした政治制度の確立の一環だったと思われます。
 こうして作られた暦は、行政に携わる役人たちに使われました。地方の役人にも伝えられ、役人たちは中央から届いた暦を書き写して使っていたそうです。
 しかし、一般の人々は、自然が教えてくれる農事暦を使っていたようです。日本は南北に長い地形をしていますから、地方によって季節がずれていきます。このため農事暦もずれていきます。こんなことから、各地方ごと、あるいはそれぞれの村ごとに、実用的な暦が作られ、用いられていたと思われます。
 その後も中国から、新しい暦が伝わってきました。朝廷は幾度か改暦を行ない、儀鳳暦(ぎほうれき)、大衍暦(だいえんれき)を経て宣明暦(せんみょうれき)が採用されました。いずれも中国で開発された暦です。
 徳川家康が江戸に幕府を開き、世の中も落ち着いてきたころ、800年以上も使われてきた宣明暦と天体の運行にずれが生じることが気になりはじめました。
 二代将軍徳川秀忠の第三子で四代将軍家綱の後見を務めた会津藩主保科正之は、宣明暦に変えて授時暦(じゅじれき)を採用すべきだと考え、渋川春海(しぶかわはるみ)に研究させました。
 他界した保科正之の遺言を受けて、渋川春海は授時暦を採用するようにと幕府に上奏しましたが、たまたま天行と一致しないところがあったために、採用に至りませんでした。
 授時暦が天行を説明しきれなかったのは何故なのか疑問を持った渋川春海は、日夜観測を続けました。その結果、授時暦は中国の北京を中心にして作られた暦であり、そこから遠く離れた京都では、狂いが生じるのだと気付きました。そこでこの距離を考慮して修正を加え、日本独自の大和暦が誕生しました。
 渋川春海は、自ら開発した大和暦を改めて上奏しました。他にも上奏されていた暦がありましたが、渋川春海の暦の正確さが確かめられ、ついに採用されることとなり、貞享暦(じょうきょうれき)と名付けられました。これを貞享の改暦と言います。その後、宝暦(ほうれき)の改暦、寛政(かんせい)の改暦、天保(てんぽう)の改暦が行なわれ、明治時代に入ります。これらの暦はすべて太陰太陽暦でした。
 明治政府は、諸外国との交流が深まるにつれ、太陽暦を採用しなければならないと思いました。明治5年11月9日、何の前触れもなく、政府から改暦が発表されました。明治5年12月3日を明治6年1月1日とするというのです。発表から改暦の日まで22日しかないという乱暴なもので、世間が一時混乱したのは当然です。
 それ以来、日本では太陽暦が用いられています。現在私たちが用いている暦は、世界標準となっているグレゴリオ暦です。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成27年12月号に掲載)