【随筆】−「明治の改暦」               浪   宏 友


 江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜は、慶応3年10月14日、明治天皇に政権返上を上奏し、翌日、天皇がこれを勅許して、大政奉還がなされました。時代が変わったのです。
 当時、日本で使っていた暦は天保暦で、太陰太陽暦でした。この頃、西洋の人々との交流が盛んになりましたが、暦では不便をしていました。太陽暦を使っている西欧の人々と交流するために、日本の太陰太陽暦に西欧の暦を書き入れたりしていたのです。
 渡欧するなどして、外国で生活してきた人々の多くが、太陽暦のほうが便利である、日本も太陽暦を用いるべきであると考えるようになりました。日本ではいまだに太陰太陽暦を使っているのかと、西欧の人々から蔑まれることもあったようです。
 こうした圧力もあって、政府も暦を切り替えなければならないと考え、ついに改暦に踏み切ったのです。しかし、そのやり方があまりにも乱暴でした。
 明治5年11月9日、政府は天保暦を廃して、太陽暦に改める旨を発表しました。明治5年12月3日を、明治6年1月1日にするというです。
 人々はびっくりしました。前触れもなく発表があったうえ、改暦まで1か月もないのです。12月2日が大晦日なのです。
 東京では、東京日日新聞が、名古屋では愛知新聞が、11月10日に改暦を報道しました。この日は、通常をはるかに超える部数が飛ぶように売れたそうです。
 改暦を伝達する公式ルートは、国から府県へ、府県から町村へと布達され、それから人々に知らされるという仕組みです。国の隅々にまで伝わるにはかなりな日数がかかります。人々が知ったときには、1月1日が目の前であったに違いありません。
 暦の出版社もこの時初めて知ったのですから、驚いたことでしょう。11月といえば、来年の暦の印刷が終っていたはずです。そこへ改暦の知らせが入ったのですから、倉庫に山積みの暦は全部紙くずになってしまったのです。大損失です。新しい暦を作ろうにも、政府から新しい暦の詳細を知らされなければ、印刷もできません。
 人々に周知することもなく、それどころか周知する準備もなく、いきなり改暦したのです。暴挙としか言いようがありません。政府は、どうしてこんな慌ただしい改暦を行ったのでしょうか。
 理由の一つが、国際交流の中で、広く使われている太陽暦に合わせる必要があったことです。これはうなずけます。しかし、それだけではこんなに急ぐ必要があったとは考えられません。1年ぐらいかけて切り替えても良かっただろうと思います。
 実は、政府には緊迫した理由がありました。財政難です。当時の政府は財政がひっ迫していたのです。
 江戸時代は給料を年俸で決めるのが普通でした。これが明治になってから月給になっていました。1年は12か月ですから12回支給することになります。ところが太陰太陽暦を使っていると、13か月の年があるのです。すると13回支給しなければなりません。
 実は明治6年が13か月だったのです。給料を1か月分余計に払わなければなりません。これを12か月に戻すには、改暦はうってつけの方法でした。政府にとって、さらにいいことがありました。明治5年は12月が2日しかないことになりますから、12月分の給料を支給しないでいられます。都合2か月分の給料を節約できるというわけです。なんとも、身勝手な理由ではありませんか。
 このとき福沢諭吉は、風邪をひいて自宅で寝ていたそうですが、すぐに起き上って太陽暦の解説書をしたためました。『改暦弁(かいれきべん)』という小冊子です。これがとても読みやすく分かりやすかったので、飛ぶように売れたと伝えられています。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成28年1月号に掲載)