【随筆】−「パンドーラーの物語」          浪   宏 友



 名高い工匠である炎と鍛冶の神ヘーパイストスは、大神ゼウスの命を受け、自らの工房で粘土を水でこね、人の形を作りました。その顔や姿態は不死の女神に似せました。それに人間の声と生きる力を打ち込みました。女神アテーナーは、銀白の衣を装わせ、女神アプロディーテーは、ろうたけた雅と、悩ましいあこがれと、物思いとを授けました。そこに、いたずら好きなお使い神ヘルメースが、ずるっこい気質を吹き込みました。
 こうして生まれた人間の女に、大神ゼウスはパンドーラーと名付けました。
 パンドーラーはゼウスの命を受けて地上に降り、一人の男の前に立ちました。その名はエピメーテウス(後から考える男)。プロメーテウス(前もって考える男)の弟です。
 兄は弟に、ゼウスからの贈り物は決して受け取ってはならないと、きつく言い聞かせていました。弟も、分かった、絶対に受け取らないと答えていました。しかし、目の前にパンドーラーが立った時、兄の忠告などすっかり忘れて、夫婦の契りを結びました。こうしてパンドーラーは、地上に暮らす人間の一員となったのです。
 神々と人間とは、同じ大地から生まれた者同士として、友好を保っていたのです。しかし、時がたつにつれて、人間たちは欲望を募らせ、おごりも生じて、神々をないがしろにするようになりました。
 神々と人間の間の争いが激化しはじめたとき、仲裁に立ったのがプロメーテウス(前もって考える男)でした。
 プロメーテウスは、大神ゼウスの親戚に当たる立場にあり、かつてゼウスに助力したという経緯もあります。それやこれやで、ゼウスを見下す気持ちを持っていました。このためでしょうか、仲裁の席で、大神ゼウスを試すようなことをしてしまったのです。
 怒りに燃えた大神ゼウスは、人間に火を与えることを拒みました。火を得られない人間たちは、夜に明かりをつけることも、暖を取ることもできません。食物を煮たり焼いたりすることもできません。不安と病気で、このまま滅びてしまうかと思われました。
 これを見かねたプロメーテウスは、人間たちに、火をもたらそうと考えました。彼はオオウイキョウの茎を持って天に上り、太陽神の御する馬車の車輪に芯を押し付けて火を移し、隠し持って地上に帰って来ました。
 ようやく火を得た人間たちは、食物を煮炊きすることができるようになり、暗い夜も安らかに眠ることができるようになりました。
 大神ゼウスはプロメーテウスを厳しく罰しました。それだけでは収まらず、プロメーテウスの弟のエピメーテウスのもとに、パンドーラーを送ったのです。
 パンドーラーは、大神ゼウスから一つの甕を授かっていましたが、決して蓋を開けてはならぬと厳しく申し渡されていました。
 パンドーラーは甕の中を見たくてたまりません。とうとうある日、固く閉ざされていた蓋を開けてしまいました。すると、何かが立ち昇り四方に広がっていきました。
 この中には、人間の災厄が閉じ込められていたのです。この時から、人間は数々の災厄に見舞われることになりました。これは大神ゼウスの深いたくらみでありました。
 パンドーラーは慌てて蓋を閉めました。しかし、もう取り返しがつきません。甕を前に呆然としていると、どこからか声が聞こえます。どうやら、甕の中から呼んでいるようです。パンドーラーはどうしようかと迷いましたが、こわごわと蓋を開けました。すると小さな妖精が、羽をばたつかせながら出てきました。希望でした。のろまな希望は、素早い災厄たちに押しのけられて、甕のなかに残ってしまっていたのです。
 災厄渦巻く人間世界に、一人飛び立っていく希望を見送りながら、パンドーラーは、祈るほか何もできませんでした。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成28年4月号に掲載)