【随筆】−「プシューケーの迷い」          浪   宏 友



 ある国の王と王妃の間に、三人の姫がおりました。いずれも容色麗しい姉妹でしたが、なかでも末娘のプシューケーは、この世ならぬ美しさと言われました。人々は、女神アプロディーテーの神殿に参拝するのを忘れ、王宮の前に集まって、プシューケーが現われるのを待つというありさまでした。
 神々の中でも、もっとも美しいと言われた女神アプロディーテーにしてみれば、人々の眼が自分に向くことなく、たかが人間の娘に遅れをとっていることに怒りを覚えました。
 アプロディーテーは息子のクピードーを呼び、プシューケーが、この世で一番醜い男を愛するように仕向けなさいと命じました。クピードーの弓で黄金の矢を射かけられると、激しい恋心に支配されるのです。
 命を受けたクピードーが、プシューケーに黄金の矢を向けたとき、彼女のあまりの美しさに手元がゆらぎ、矢じりで自分を傷つけてしまいました。そのときからクピードーはプシューケーに、断ちがたい思いを抱くようになったのです。
 三人の姉妹も年ごろとなり、二人の姉には求婚者が現われて結婚したのですが、プシューケーには、婿になり手が現われません。不思議に思った両親が神託を伺うとプシューケーに花嫁衣装を着せて、山の頂の崖の上に置けと託宣がありました。意外なお告げに戸惑いましたが、神の言葉を違えるわけにはいきません。泣く泣く、プシューケーをお告げの場所に連れていくしかありませんでした。 山上の崖の上に一人残されたプシューケーは、心細さと恐ろしさに震えていましたが、いつしか眠ってしまいました。
 プシューケーが目覚めると、見知らぬ宮殿の寝台に横になっていました。そこには人影がありませんでしたが、姿を見せない侍女がいました。呼ぶと声がして、給仕をしてくれたり、分からないことを教えてくれたりしました。
 夜になり寝台に横になっていると、脇に黒い影が立ちました。影は優しく語りかけてきました。私がそなたの夫だよ。この宮殿は私のものだ。そなたはここで思うままに暮らしてよい。影はプシューケーと楽しく語り合ってくれます。プシューケーはこの影に愛を抱き、夫婦の契りを結びました。
 ただ、影はプシューケーに、きつく言い渡しました。決して私の姿を見てはならぬ、見ようと思ってもならぬ、と。
 夫は夜明け前に出かけ、日暮れてから帰って来ます。夫の姿を見ることはできませんでしたが、毎日は幸せでした。
 ふと、プシューケーは思いました。父母や姉妹は、私がどうなっているか分からずに心配しているのではないだろうか。こんなに幸せに暮らしていると知れば安心するにちがいない。そう思ったプシューケーは、家族をここに招きたいと夫に頼みました。夫は気が進まない様子でしたが、妻の懇願を受け入れました。
 二人の姉が訪れました。プシューケーは、心からもてなしました。姉たちはプシューケーの豪華な暮らしに嫉妬を覚えました。そして妹をそそのかしたのです。お前の夫はきっと醜い怪物に違いない。いまに取って食われる。今のうちに処置しなさいと、夫の殺害をけしかけたのです。
 その夜、プシューケーは、燭台を掲げて、夫の眠る寝台に近づきました。すると、明かりの中に見えたのは、美しい少年の清らかな寝顔だったのです。思わず差し出した燭台から油がしたたり落ちて夫の頬に落ちました。夫は眼を醒まし、この光景に驚きました。
 夫は厳しい口調で、愛は疑いとは同居できないと言い放ち、立ち去りました。
 城は消え、プシューケーは見知らぬ山中に一人立ち尽くしていました。夫の行方を追って夜空を見上げれば、そこには美しい星々が輝いているばかりでした。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成28年5月号に掲載)