【随筆】−「カリストーの物語」          浪   宏 友



 処女神アルテミスは、野山の生類と狩猟の神でした。双子の兄神アポローンと同様、弓射の名手です。弓矢を携えて山野を駆け巡る姿で絵画や彫刻になっています。狩りに疲れたアルテミスが、ニンフ(妖精)たちと水浴する絵も描かれています。
 アルカディア族の祖であるリュカーオーンの孫娘に、ニンフのカリストーがいました。カリストーもまた、槍や弓矢を手に、女神アルテミスと共に、山野を駆け巡る毎日を送っていました。
 オリュンポスの山上から、地上を見下ろしていた大神ゼウスは、アルカディアの森を、活き活きと駆け巡る愛くるしい少女を認めました。その姿を追ううちに、激しい欲情を抱いてしまったのです。
 ある昼下がり、カリストーは一人、森の樹陰に疲れた身を横たえ、仮睡をしていました。気づくと、女神アルテミスがカリストーを見下ろしています。カリストーは驚き飛び起きました。アルテミスは、優しく声をかけながら、カリストーの脇に座りました。そして両の手を背中にまわして抱き寄せました。カリストーが戸惑っていると、アルテミスはたちまちゼウスに姿を変えました。仰天したカリストーは必死に逃げようとしましたが、ゼウスの力にかなうはずもありませんでした。
 カリストーは、悪夢の森を後にしました。しばらくは森を目にするのも厭われました。時がたち、ようやく気持ちが落ち着いたころ、仲間のニンフたちの誘いもあって、またアルテミスの一行に加わりました。しかし、アルテミスに近づくことはできませんでした。
 そんなある日、森の奥の池で、アルテミスやニンフたちが水浴をはじめました。一人遠ざかっていたカリストーをニンフたちは、無理やり水辺に引っ張り出し衣をはぎ取りました。そのとき一人のニンフが金切り声を上げました。カリストーの身体の異常に気付いてしまったのです。
 潔癖な処女神アルテミスは、毅然として、カリストーを追い出してしまいました。
 月満ちて、カリストーは男児を出産しました。祖父リュカーオーンの屋敷の近くを選んだのは、頼れる人がほかにいなかったからです。自分の衣を産着にして、嬰児を抱き上げたとき、大神ゼウスの妃神ヘーラーが現われ、カリストーの前に立ちました。ヘーラーは夫を誑かしたカリストーに罵声を浴びせ、その姿を牝熊に変えてしまったのです。
 我が子を抱くこともできなくなったカリストーは、悲しげな声を上げましたが、それは牝熊の吠え声でしかありませんでした。
 熊の吠え声に外に出たリュカーオーンは、赤子の泣き声に気づきました。見ると、孫娘カリストーの衣にくるまって赤子が泣いています。わけが分からぬままリュカーオーンは、この子を育てることにしました。
 それから15年。赤子は立派な若者に育ちました。母に似てか、狩りが得意で、いつも槍を持って山野を駆け巡っていました。
 カリストーはあれ以来、我が子が気がかりでこのあたりから離れられないでいました。
 ある日の午後、顔を上げると一人の若者が見えました。それがわが子だとすぐに分かりました。思わずわが子を呼びました。それは吠え声となって若者の耳に届きました。
 若者が見ると、大きな熊がこちらをみています。若者は、何か温かなものを感じました。しかし、熊がこちらに向かってくるのをみると、我に返り、持っていた槍を構えて熊にめがけて投げました。槍はまっすぐに熊の眉間に向かいました。
 この様子を天空から見ていた大神ゼウスが、素早く二人を天に上げました。槍は空を切って飛び去りました。
 ゼウスは、牝熊となったカリストーを大熊座に、息子を小熊座にしました。母が子を抱くように、二つの星座が巡っているのは、こうしたわけがあったからです。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成28年8月号に掲載)