【随筆】−「クレウーサの物語」          浪   宏 友



  アテーナイの王妃クレウーサは、夫のクスートス王に促されて、アポローン神を祀るデルポイの神殿に向かいました。永年連れ添う夫との間に子を恵まれなかったので、神託を受けに旅立ったのです。
 クレウーサは、この神殿には行きたくありませんでした。デルポイの神殿はアテーナイからはかなりの距離です。そんなに遠くに行かなくてもなどと渋ったのですが、夫の熱意に負けてしまったのです。
 クレウーサは乙女の頃このあたりに住んでいました。祭りの夜、踊り疲れたクレウーサが神殿の北側で休んでいた時、アポローン神が現われたのです。クレウーサの美しさに心乱れたアポローン神は、驚き畏れる乙女を崖下へ連れて行き愛を授けたのです。クレウーサはこの出来事を誰にも言えずにいました。
 やがてクレウーサは、体に変化が現われていることに気づきました。人前に出ることを避けて、誰にも気づかれずに時が満ち、ひとりで男児を出産しました。
 クレウーサは赤子を、密かに用意した箱に入れて、あの崖の下、アポローンから辱めを受けたところに置きました。
 それから間もなく、クレウーサはアテーナイの王クスートスに見初められて王妃になったのです。
 夫に連れられて、デルポイの神殿まで来てしまったクレウーサでしたが、来たくないと思いつつも拒み続けなかった心の内には、この地に来ればあの子の消息が分かるかもしれないという幽かな思いがありました。
 王と王妃が神殿に入ったとき、一人の若者が出迎えました。イオーンと名乗るこの若者の清らかな姿に、王妃は心惹かれました。
 クスートス王は一人で奥殿に入り、アポローン神の神託を受けました。神は王に告げました。社殿を出て初めて出会う者が、そなたの子として生まれた者である、と。
 王が不思議に思いながら社殿を出ると、あのイオーンに出会いました。王は、この若者こそ神のお告げの子であるにちがいないと確信して、イオーンに声をかけました。
 クレウーサは、夫が、神からの授かりものと言いながらイオーンを連れてきたとき、夫の私生児だと思い込みました。アポローンはここでも自分を侮辱するのかと激しい怒りにとらわれました。
 祭りの席で、皆の盃に酒が注がれたとき、クレウーサは隙を見て、イオーンに毒の入った盃を渡しました。盃に酒が注がれました。
 はじめの酒は神に捧げるのが習慣でした。イオーンも皆と一緒に酒を神に捧げ、地に注ぎました。無数の鳩が舞い降りて地に注がれた酒を飲みました。ところが、イオーンの酒を飲んだ鳩だけが、羽をばたつかせて死んでしまったのです。
 イオーンは神殿の衛士たちを引き連れ、自分に毒盃を渡したクレウーサを捕えようとします。クレウーサは、アポローン神の祭壇に逃げ込みました。
 クレウーサの夫は、我が子になるはずの若者と我が妻との間に何があったのかも分からないまま、妻をかばって祭壇の前に立ちはだかりました。
 事態が険悪になりはじめたとき、年老いた巫女が、箱を持って走り込んできました。これを見たクレウーサは、自分を守る夫を押しのけ、祭壇を捨てて飛び出しました。巫女の持ってきた箱が、赤子を入れて崖下においたあの箱だったからです。
 巫女から、イオーンこそ、この箱に入っていた赤子だと教えられたクレウーサは、自分を捕えようとしているイオーンに両手を広げて駆け寄るのでした。
 イオーンも、王も、ようやく事態を理解しました。アポローン神が、母と子を会わせるために、ここまで導いてきたのだと悟りました。3人はアポローン神に感謝を捧げ、連れだってアテーナイに向かうのでした。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成28年10月号に掲載)