【随筆】−「イーピゲネイアの物語」          浪   宏 友



 イーピゲネイアは、ミュケーナイの王アガメムノーンの娘です。アガメムノーンは、ギリシャ諸侯のリーダー的な存在でした。
 トロイアの王子パリスは、策を弄してスパルテーの王妃ヘレネーをトロイアに連れ帰り自分の妃にしました。激怒したギリシャ諸侯は軍勢を編成し、アガメムノーンが総大将となって一千艘の船団を海岸に集結しました。
 母と共に父の武運を祈っていたイーピゲネイアのもとに、ギリシャ軍の総大将となった父からの迎えが来ました。ギリシャの勇士アキレウスの花嫁になるのだというのです。
 思いがけない話に驚き、喜びに溢れて支度にとりかかりました。花嫁の装いを整えて、母と共に父の元に向かいました。ところが、到着してみると、そこに婚礼の支度はなく、生贄の祭壇がしつらえられていました。イーピゲネイアを女神アルテミスの生贄にするというのです。娘と母は、天界から地獄へと突き落とされてしまいました。
 父アガメムノーンは、半狂乱となる娘と妻に、ことの次第を説いて聞かせました。
 ギリシャ軍の大船団が、トロイアに向けて出航しようとしたとき、突如、逆風が吹き始めて、出航できなくなりました。預言者が神にお伺いをたてますと、かつてアガメムノーンが女神アルテミスの聖なる鹿を弓矢で射て獲った報いだったのです。女神の怒りを鎮めるには、愛娘イーピゲネイアを生贄に捧げるほかはないと告げられたのです。
 ようやく、我が身の置かれた立場を呑みこめたイーピゲネイアは、父とギリシャ軍のために、過酷な運命を受け入れたのでした。
 イーピゲネイアは祭壇に乗り、斧が振り下ろされるのを待ちました。そのとき、まばゆい光が立ち上り、人びとは眩しさのあまり目を閉じました。再び目を開いたとき、そこにイーピゲネイアのすがたはありませんでした。
 イーピゲネイアは、ギリシャから遠く離れた黒海東岸にあるアルテミス女神の神殿で目覚めました。そして、この神殿で、アルテミス女神に仕える祭司となりました。
 この土地の人びとは気が荒く、古くからの慣習がありました。異国の民がこの土地の海岸に流れ着くと、例外なく、アルテミス女神の生贄にするのです。イーピゲネイアは、生贄の儀式を執り行なう立場となりました。
 ある日、二人のギリシャ人が牽かれてきました。イーピゲネイアは、自分と故郷を同じくするギリシャの若者に、心を動かされました。二人のうちの一人を国に返して、自分の境遇を母たちに知らせたいと思いました。
 イーピゲネイアは、二人に自分の身の上を語りました。すると若者のひとりが言いました。それでは、あなたが私の姉上なのですね。あなたが生贄の祭壇から姿を消した話は、父母から聞かされています、と。この若者こそイーピゲネイアが生贄になったとき、まだ幼かった弟だったのです。
 弟たちは、イーピゲネイアが仕える神殿に祀られているアルテミスの像を、ギリシャに持ち帰らなければならないのでした。
 イーピゲネイアは意を決しました。祭司の立場を使って、罪人が触れたアルテミス女神の像を浄めねばならぬと託宣し、人々を神殿から外に出し、各々の家に引きこもらせました。アルテミスの像を浄めるためと称して、海岸に持ち出し、隠しておいた小舟に移して沖合に漕ぎ出しました。
 城の物見に立っていた兵士がこの様子に気づき、王に知らせました。王は激怒し、すぐさま船団を率いて後を追いました。
 小舟と船団では勝負になりません。たちまち追いつかれて捕えられかけたとき、女神アテーナー(アルテミス女神ではなく)が出現し、王を諭して引きかえらせました。
 三人は、ギリシャに戻ると、アルテミス女神像を神殿に祀りました。イーピゲネイアはこの神殿の祭司となり、長くアルテミス女神に仕えたということです。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成28年12月号に掲載)