【随筆】−「カッサンドラーの物語」          浪   宏 友



 トロイアの王女カッサンドラーは、早くからアポローン神の神殿で巫女を務めていました。知性に溢れ、透徹した美しさを持つカッサンドラーは、アポローン神からこよなく愛されました。しかし、彼女は神に仕える巫女として真心を尽くすのみで、それ以上には踏み込もうとしませんでした。
 アポローン神はカッサンドラーの心を打ち解けさせようと、贈り物をしました。先々の出来事を予知し、これを託宣として人々に伝える力を授けたのです。それでもカッサンドラーは、アポローン神のみ心に従おうとはしませんでした。
 この上ない贈り物をしたのに、なお従わないカッサンドラーに、アポローン神は怒りました。腹立ちまぎれに贈り物を取り返そうとしましたが、神の立場では、一度授けたものを取り返すわけにはいきません。そこでアポローン神は、カッサンドラーの託宣を、人々が信じないようにしてしまいました。
 カッサンドラーの兄は、トロイアの王子パリスです。パリスは、アプロディーテー女神の庇護のもと「人間の中でもっとも美しい女性」とされるスパルタ王の妻ヘレネーを略奪してトロイアに連れ帰り、わが妻としました。
 これを見たカッサンドラーは、すぐにヘレネーをスパルタに返すように兄を説得しました。この女がもとになって、トロイアが亡びることを予知したからです。しかし、パリスはもとより、彼女の言葉に耳を傾けるものは一人もいませんでした。アポローン神の神力がそうさせたのです。
 ほどなく、ギリシャの軍勢がトロイアに攻め込みました。総帥のアガメムイノーンは、ヘレネーの夫の兄でした。
 ギリシャ軍とトロイア軍の戦いは一進一退を繰り返し、9年の歳月が流れました。
 ある日、トロイアの物見が、目を疑いました。海岸に陣を張っていたギリシャの軍勢が一人もいないのです。沖合に停泊していたギリシャの軍船も消えていたのです。
 ギリシャ軍がトロイア攻略を諦めたのだと思ったトロイアの人びとは、城門を開き、海岸に行きました。そこには巨大な木馬が置いてありました。これはギリシャ軍の守り神にちがいない、大きすぎて船に乗らなかったのだろうと大笑いしました。木馬を城に入れて戦勝の盃を上げようと声が上がりますと、賛同の声が湧き上がりました。人々は木馬を城に向かって引き始めました。
 そのときカッサンドラーが叫びました。木馬を城に入れてはならぬ。城に入れればトロイアが滅亡する。しかし、アポローン神の神力によって、人々はカッサンドラーの言葉を無視したのです。
 このとき、アポローン神に仕える神官ラーオコーンも、これはギリシャ軍の謀略であるから、木馬を城に入れてはならぬと制止しました。そのとき海から大蛇が現われ、ラーオコーンと二人の息子を海に引きずり込みました。人々はそれみたことかと、警告を聴かず、木馬を城内に引き入れました。
 その夜、トロイアの人びとは、戦利品の木馬を囲んで、大いなる宴を繰り広げました。
 宴に疲れたトロイアの人びとが寝静まった頃、木馬の腹が開きました。ギリシャの兵士が静かに降り立ちました。兵士は城門を開きました。夜陰に紛れて戻っていたギリシャの軍勢が城内に一斉に攻め入りました。トロイアはたちまち陥落してしまったのです。
 カッサンドラーは、トロイアの王女としてギリシャ軍の捕虜となり、ギリシャ軍の総帥であるアガメムノーン王に与えられました。
 アガメムノーンの王妃は、わが子を出陣の生贄にした夫を深く恨んでいました。凱旋した夫がカッサンドラーを伴って居るのを見て、恨みはさらに燃え上がりました。
 ある日、アガメムノーン王と共にいたカッサンドラーは、王妃が差し向けた暴漢に襲われ、王と共に命を奪われたのでした。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成29年1月号に掲載)