【随筆】−「八幡さま」                浪   宏 友



 長野市小島田の八幡原(はちまんぱら)史跡公園は、川中島古戦場とも呼ばれています。
 武田信玄と上杉謙信が千曲川と犀川に挟まれた川中島で対峙したとき、謙信が武田側の陣屋に単身で切り込み、信玄と一騎討ちをしたという伝説がありますが、この公園には、馬上から刀を打ち降ろす謙信と、軍扇で迎え撃つ信玄の像があります。
 この像のすぐ近くに八幡社があります。社殿が二つあって、小さくて簡素な旧社殿は鞘堂と呼ばれ、そのすぐ後ろに本殿があります。
 旧社殿の前に立っている「八幡原御由緒」によれば、祀られている神さまは、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)です。由緒には、平安中期に誉田別尊が八幡大神として祀られたとあります。誉田別尊は応神天皇(おうじんてんのう)です。
 建御名方命は、大国主命の二番目の子供で、諏訪大社の祭神です。こちらは、明治四十一年に合祀されたそうです。
 その昔、神功(じんぐう)皇后は、夫である仲哀(ちゅうあい)天皇に先立たれ、お腹に応神天皇を宿したまま朝鮮半島に出兵し、三韓征伐を成し遂げて帰ってきました。
 都へ帰る途中、北九州の筑紫で応神天皇を出産しました。
 欽明天皇の御代、豊前国(大分県)宇佐郡の厩峰の麓、菱潟池のほとりに、容貌奇異な鍛冶の翁が住んでいました。その翁が金色の鷹や鳩に変じるのを見た大神比義という神主が、もしあなたが神ならばお姿を現してくださいと祈りました。三年の間祈り続けたところ、三歳の童子が竹の葉の上に立ち「我は誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我が名は護国霊験威力神通大自在王菩薩なり」と名乗りました。
 これが八幡大神のいわれだと伝えられています。応神天皇が筑紫で誕生しているところからも、九州と縁の深い神さまなのですね。
 八幡大神が、八幡大菩薩とも呼ばれるのは、ここに「菩薩」とあるからかもしれません。仏教とも縁の深い神さまであるようです。
 八幡とは、八本の幡(はた)ということでしょう。この幡が何を意味しているのかについては諸説あるようです。幡は、周りから目立つために掲げるのでしょう。そこから、中心に居る神さまが八方に幡を掲げて、一人残らず守護してやるぞと人びとに呼びかけているというイメージが、私には浮かびました。
 聖武天皇が奈良に大仏を造立しようと発願したとき、宇佐の八幡神から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」と託宣が届きました。八幡大神の加護もあって、大仏は完成し、開眼に至りました。
 東大寺が完成すると、宇佐の八幡神が、東大寺の守護神として近くの手向山に勧請されました。一地方の土地神であった八幡神が、国家の中心に顔を出したわけです。
 平安時代始め、南都大安寺の行教和尚が宇佐八幡宮で祈祷したとき「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との八幡神の託宣がありました。これを受けて石清水の男山に八幡大神を勧請しました。これによって、都人に身近な神になりました。
 源頼義の長男として誕生した義家は、七歳のとき、石清水八幡宮で元服し、八幡太郎と名乗りました。八幡太郎義家は理想的な武将として崇められました。
 源頼朝、義経兄弟は、義家から四代目に当たります。頼朝が鎌倉に幕府を開き、八幡神を源氏の氏神として鶴岡八幡宮を建立しました。これにならって各地の武士たちが自分の所領に次々と八幡宮を建てました。こうして八幡神は、武家の守護神になっていきました。
 聞くところによれば、八幡神を祭神とする神社は、日本全国で四万社以上だそうです。
 武家のいなくなった現代でも、多くの人びとに信仰され、親しまれている神さまであることが分かります。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成29年5月号に掲載)