【随筆】−「蘇民将来」                浪   宏 友



 長野県上田市にある信濃国分寺では、正月の7日、8日に八日堂縁日が開かれます。八日堂とは、信濃国分寺の別称です。
 本堂では護摩を焚き読経がなされ、境内では「蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」が頒布されます。近隣ばかりでなく、遠方からの参拝者が、蘇民将来符を求めて長蛇の列を作ります。
 八日堂の蘇民将来符は六角形の木柱になっていて、各面に「蘓民・将来・子孫・人也・大福・長者」の文字が見えます。「蘇民」ではなく「蘓民」となっています。
 この護符をいただいて祀る家は厄災をのがれて代々繁栄すると伝えられています。
 蘇民将来符は、八日堂以外にも頒布する神社や寺院が日本各地にあります。
 人びとは、何故、この護符を求めるのでしょうか。信濃国分寺に伝わる「牛頭天王(ごずてんのう)祭文」で見てみましょう。
 須弥山(しゅみせん)の北方の国を治めている帝がおりました。その王子が牛頭天王です。帝の心配は、牛頭天王のお后がなかなか決まらないことでした。
 牛頭天王は頭に牛の角を持ち、憤怒の相をしているために、恐れをなして、お后になり手がなかったようです。
 ある日、山鳩が飛んできて「龍宮にいる龍王の三番目の王女が、牛頭天王の后に相応しい」と教えます。これを聞いた牛頭天王は、龍宮に向けて旅立ちました。
 旅の途中で日が暮れました。ちょうどそこにたいそう富んだ家がありました。小丹(こたん)長者の屋敷でした。牛頭天王が一夜の宿を頼みますと、素っ気なく断られました。牛頭天王がもう一度頼みますと、小丹長者は怒りだして、家の者を呼び、皆で牛頭天王を追い出してしまいました。
 牛頭天王はやむなく先に進みました。ずいぶん行ったところに、粗末な家がありました。蘇民将来の家でした。牛頭天王が夕食と一夜の宿を頼みますと、蘇民将来は「あなたのような立派な方がお召し上がりになるようなものはご用意できません、お泊めするところもございません」と申し上げます。牛頭天王が「どのようなところでも構いません、食事もあなたと同じで結構です」と言いました。蘇民将来は新しいむしろを敷いて牛頭天王を迎え入れ、粟の飯でもてなしました。
 翌朝、牛頭天王は言いました。それにしても、小丹長者はけしからん。私は疫病を司るものとなって必ずこらしめてやろう。これを聞いた蘇民将来が「小丹長者の嫁は私の娘です。娘だけはお助けください」と頼みます。牛頭天王は「それなら、柳の木でお札を作り『蘇民将来之子孫也』と書いて身につけておきなさい。それを目印として助けてやろう」と言いました。
 牛頭天王は龍王の娘と契り、龍宮に12年滞在して8人の子を儲け、家族そろって帰国の途に着きました。
 牛頭天王が蘇民将来の家に立ち寄りますと、豪華な宮殿で出迎えてくれました。これはどうしたことかと尋ねると、牛頭天王が旅立った後、天から宝が降り、地から泉がわき出して豊かになったとお礼を言うのでした。
 一方、小丹長者は、牛頭天王が来ると聞くと、慌てて屋敷を鉄の塀で囲み、上空には鉄の網を張って守り固めました。ただ一か所、屋敷から水が流れ出しているところがありました。牛頭天王は家来たちと共にそこから侵入し、小丹長者とその一族を滅ぼしてしまいました。牛頭天王は、疫病の神です。小丹一族は、疫病で滅びてしまったのです。
 ただ一人蘇民将来の娘だけは、お札を持っていたので助かりました。それを聞いた人々は「蘇民将来之子孫也」と書いたお札を持つようになりました。
 蘇民将来の護符を持つのは、牛頭天王に守護してもらい、疫病から救われるためだったのです。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成29年8月号に掲載)