【随筆】−「お不動さま」           浪   宏 友



 山道を歩いていたら、お寺が見えました。おや、こんなところにお寺があると思って立ち止まりましたら、門前に祠があって、格子戸になっています。覗いてみたら、お不動さまでした。お寺の門番をなさっているのでしょうか、それとも道行く人々を見守っているのでしょうか。
 お不動さまを御本尊とする大小のお寺がある一方で、路傍に立っているお不動さまもあります。賑やかな街中に立つ華やかな不動堂もありますし、畑の脇に立つ素朴なお不動さんもいます。風雨にさらされて摩耗した石仏でもお不動さんだなと推測できるのは、右手に剣の形が残っているからです。
 お不動さんとは、不動明王に対する親しみを込めた呼び方です。京都東寺にある立体曼荼羅では、五大明王の真ん中に不動明王がでんと構えています。明王たちのリーダーなのでしょうか。
 「明」には「仏の智慧」という意味があります。「王」には「立派な人」という意味や「盛んに活動する」という意味があります。
 「明王」とは、「仏の智慧を備えて盛んに活動している立派な人」という意味なのでしょうか。そういう明王が五人いて、その中心がお不動さんなのでしょうか。
 東京に住んでいた私が、お不動さんと言われるとすぐに思いだす寺院があります。成田山新勝寺と高幡不動尊金剛寺です。関東三大不動というそうですが、もうひとつはどこだか分かりません。全国的には、不動明王を本尊にした著名な大寺院が数々あるようです。
 それにしても、お不動さんの像はものすごい迫力です。静かで穏やかな仏の像や菩薩の像に比べて、お不動さんの像は動的で威圧的です。ここには、それなりの意味が込められているのに違いありません。
 数多い不動明王像を見比べますと、細かいところでは違いもありますが、基本的なところはだいたい共通しています。
 左側の髪を長く垂らしているのは奴僕の姿なのだそうで、あらゆる人を献身的に守護するのだそうです。
 忿怒の相は、自分の中にある悪から目を逸らしたり誤魔化そうとする衆生を睨み付けて、自分の悪を直視させようとしているのだとか。
 お不動さんの本体は大日如来という仏さまなのだそうです。恐ろしい形相の奥には大きな慈悲が秘められているわけです。温かな慈愛で抱きとりながら厳しく叱りつけるのです。これは処罰ではなく、教育なのですね。
 筋肉隆々の右手に持つ大きな剣は、悪を生み出す迷いや誤った欲望という、心内の悪魔を断ち切るためのもの。
 左手に持つ羂索は、迷いや誤った欲望から生み出されて走り出す、さまざまな煩悩を絡め捕り、動けないように縛り上げるもの。
 燃え上がる炎は、衆生の中にうごめく悪の根源を焼き尽くすもの。焼き尽くしたと思っても微かに残る悪の種がまた頭をもたげます。そのたびに焼き尽くしますから、この炎は燃え尽きることがないそうです。
 不動明王の姿には、まだまだ多くの意味が込められていると説明が続きます。しかし、不動明王像を仰ぎ見るときには、そんな意味など思い出しません。ただ、迫力に圧倒されるばかりです。
 東京の山手線に、目黒という駅、目白という駅があります。それぞれの駅の近くに、目黒不動尊、目白不動尊があります。都内にはこのほか、文京区本駒込に目赤不動尊、世田谷区太子堂に目青不動尊があります。目黄不動尊は、文京区三ノ輪と江戸川区平井にあります。目の色が五色になっているわけで、これを江戸五色不動というそうです。
 江戸幕府三代将軍徳川家光が天海大僧正の建言によって江戸府内から五箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するという伝説があるそうですが、真偽のほどは分かりません。(浪)

 出典:清飲検協会報(平成29年12月号に掲載)