【随筆】−「天神さま」           浪   宏 友



 受験生が天神さまに参拝します。合格祈願のためです。大宰府天満宮の絵馬掛け所には、数えきれない絵馬が掛けられていて、その多くが合格祈願だと聞いています。大阪天満宮も、京都の北野天満宮も、東京の湯島天満宮も同様だそうです。
 受験生の願いを一身に引き受ける天神さまは、平安時代に活躍した菅原道真です。
 幼少の頃から素質を現していた道真は、祖父や父の薫陶を受けて、どんどん才能を伸ばしました。
 官職に就いてからは、宇多天皇の信任を受けて要職を歴任し、官位も上がっていきました。宇多天皇が退いて醍醐天皇の世になってからも、出世の道を歩みました。
 人の世の常で、道真の出世を妬む人や不安を感じる人が現れても不思議はありません。右大臣にまで昇った道真でしたが、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)されて大宰府へ左遷されてしまいます。
 道真が京都を離れる際に、自宅の梅の木に向かって別れの歌を詠みました。
  東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
 大宰府に流されてから二年後、京に帰ることなく、道真は生涯を閉じました。
 ところが菅原道真の死後、京に異変が相次ぎました。
 道真の政敵藤原時平が39歳の若さで病死します。時平の甥にあたる醍醐天皇の皇子とその息子が相次いで死去します。更に、朝議(ちょうぎ、朝廷の会議)中の清涼殿が落雷を受け、藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出るという事件が起きます。それを目撃した醍醐天皇も数か月後に崩御しました。
 あまりにも変事が続くので、人びとは、これは道真の祟りに違いないと恐れました。自分たちは悪いことをしているという意識がありますから、その後ろめたさが、このような恐れを抱かせたのでありましょう。
 日本には、人が恨みを残して死ぬと、その怨霊が祟るという考え方がありました。目に見えない怨霊に祟られたのでは対応のしようもありません。気味が悪いし恐ろしくてたまりません。なんとか鎮まってもらわなければなりません。
 亡霊を慰めるために神として祀ることもしました。これを御霊(ごりょう)と言います。御霊として祀れば、祟ることが無くなるだけでなく、かえって自分たちを護ってくれるようになると考えたようです。なんとも、身勝手な理屈ですが、大真面目だったらしく、宮中行事として御霊会(ごりょうえ)が行なわれたといいます。
 清涼殿に落雷して多くの人々が命を落としたということから、道真の怨霊が雷神となって暴れているということになったのでしょう。
 遅ればせながら朝廷は道真の罪を赦し、改めて位を贈りました。流罪にしていた道真の子供たちを京に呼び返しました。
 それまで土地神として雷神を祀っていた北野に社殿を建てて道真を祀り、祟りを鎮めようとしました。これが北野天満宮の始まりです。雷神を天の神、天神と呼んでいたところから、道真は天神さまになったわけです。
 道真が大宰府で生涯を終えたとき、道真の門弟であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が亡骸を牛車に乗せて埋葬の予定地に向かいました。ところがある場所で牛が動かなくなってしまったのです。これは、ここに埋葬して欲しいという道真の思いであろうと考えて、その地を墓所にしました。
 後日、ここに廟(びょう)が建てられ、さらに時を経て、勅命により社殿が建てられ、大宰府天満宮のもととなりました。
 それから長い時を経て、天神さまは学問の神さまであり、至誠の神さまであり、厄除けの神さまであるとして、多くの人々の信心を集めました。そして、受験生たちがこぞって合格祈願に訪れるのです。 (浪)
 出典:清飲検協会報(平成30年2月号に掲載)