【随筆】−「鬼瓦」           浪   宏 友



 屋根の棟の端には、さまざまな装飾が施されます。唐招提寺の金堂の屋根には鴟尾(しび)が据えられています。空想上の魚類の尾ということのようです。
 名古屋城の天守閣には鯱鉾(しゃちほこ)が置かれています。鯱鉾も空想上の魚類だということですが、鴟尾が変化したものとも伝えられています。
 いずれも、火災の時に水を呼んでもらいたいという願いが込められているようです。
 こうした装飾の中に鬼瓦があります。屋根の上から、かっと目を開き、牙を立て、恐ろしげな形相で地上を睨み付けています。家に邪気を寄せ付けないようにという願いが込められているようです。
 鬼瓦と言っても、鬼面ではないものがたくさんあります。家紋などの文様をあしらった鬼瓦が使われています。大黒さまを始めとする七福神が笑いかけてくるものもあります。これがどうして鬼瓦なんだろうとも思いますが、現代では、屋根の棟の端に取りつける、雨仕舞を兼ねた装飾瓦を総称して、鬼瓦と呼んでいるようです。
 「瓦(かわら)」という名称は、仏教と共に日本に渡ってきました。
 古い時代に大陸から日本に伝わってきた仏教経典は漢訳でしたが、その中にサンスクリットが入り混じっていました。サンスクリットとは、古代インドで使われた言葉のひとつです。
 サンスクリットでは、粘土を一定の形に固めて焼いたものを「カワラ」と言いました。これが「瓦(かわら)」の語源です。
 蘇我馬子が、日本で最初の仏教寺院となる法興寺(飛鳥寺)を建てたとき、百済から専門家が渡来して瓦の技術をもたらしたそうです。この寺の鬼瓦は蓮華文です。
 その後、鬼面の鬼瓦が使われるようになりました。鬼といっても、当初は角がなかったようです。角を作る技術がなかったのではないかとも言われています。奈良時代になって角のある鬼瓦が登場したと聞きました。
 瓦は大陸から伝わってきた文化ということになりますが、鬼瓦にも、遠い国にルーツがあるとされています。
 ギリシャ神話に、ペルセウスとメドゥーサの物語があります。
 美しい少女メドゥーサは、アテナ女神の怒りにふれて、嫋やかだった姿態は醜い怪物に変えられ、美しかった黒髪はひしめく蛇にされて、ゴルゴン三姉妹の末っ子として、人びとから恐れられる存在になってしまいました。メドゥーサと顔を合わせた者は、ことごとく石になってしまうのでした。
 若武者ペルセウスは、やむなき事情から、メドゥーサの首を取って帰らねばならないはめに陥りました。これを知ったアテナ女神は、ペルセウスに知恵を授け、また自分の楯を貸しました。メドゥーサを直接見れば石になってしまいますから、楯にメドゥーサを映して闘えというのです。
 お使い神ヘルメスやニンフ(妖精)たちから、いくつもの武器を与えられたペルセウスは、メドゥーサを求めて長い旅に出ます。メドゥーサの住む谷に行き着いたペルセウスは、激しい闘いの末、メドゥーサの首を落として袋に入れ、持ち帰ることができました。
 ことを成し遂げたペルセウスは、アテナ女神に楯を返すとき、感謝を込めてメドゥーサの首を渡しました。アテナ女神は自分の楯にメドゥーサの首を付けたのでした。
 シリアの古代都市パルミラには、建物の入口にメドゥーサの彫刻を据え付ける風習があったそうです。この風習がシルクロードを経て中国から日本へと伝わり、そこから鬼瓦が生まれたとされています。
 確かに、中国、朝鮮にも鬼瓦に通じる文化が存在していたようです。沖縄ではシーサーが屋根の上で頑張っていますが、鬼瓦と関係があるのでしょうか。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成30年4月号に掲載)