【随筆】−「鬼女紅葉」        浪   宏 友



 長野県北部の戸隠を舞台にした鬼女紅葉の伝説があります。謡曲「紅葉狩」などで伝わる伝説は、鬼女紅葉を退治した平維茂(たいらのこれもち)の側から見た物語であると考えられます。これを紅葉の側から見直すとどうなるかと考えてみました。時期は平安時代の中ごろとされています。
 奥州に生まれ育った少女呉羽(くれは)は美貌と才能に恵まれ、近隣の若者たちから求婚が絶えませんでした。隣村の庄屋から息子の嫁にと請われたとき、こればかりはとても断れないと思い、逃げ出すようにして両親と共に京に上りました。
 呉羽は名を紅葉と改め、両親の営む小間物を扱う店を手伝いました。仕事の合間に読み書きを覚え、また琴を習いました。
 ある日、源経基(みなもとのつねもと)の奥方から呼び出されて屋敷に上がり、身の回りの世話をすることになりました。奥方が琴の音に心を動かされてのことでした。
 奥方の身の回りで甲斐甲斐しく働く紅葉。その姿に心ひかれた源経基は、紅葉を寵愛するようになりました。
 これに怒った奥方は病と称して床に就き比叡山の高僧を呼んで、奥方の病は紅葉が呪いをかけているためだと経基に言わせたのです。
 経基は半信半疑ながら高僧の言葉に逆らうことはできず、死罪となるべき紅葉を信濃の戸隠に流すことにしました。このとき紅葉はすでに経基の胤を宿していたのです。
 山奥の寒村に幽閉された紅葉は、村人たちの好奇な目にさらされながらも、世話をしてくれる身近な人に優しく接しました。
 村に重病人が出たとき、何もできない村人たちの前で、紅葉が献身的に看病しました。病が癒えて病人が起き上がったときから、村人たちの態度が変わりました。読み書きができて、多くの知識を持ち、村人たちのために尽くしてくれる紅葉は、この村に無くてならない存在となったのです。
 やがて紅葉は男児を出産し、経若丸と名づけました。村の子供たちと駆けずり回る経若丸に、紅葉は読み書きを教えました。村の子供たちの中にも共に学ぶ者が出てきました。紅葉も、このまま一生を終えれば何ごともなかったのです。
 そのころ、紅葉の暮らす村と近隣の村との間に争いが生じていました。昔は、村と村の間に、水争い、薪争い、村境争いなどが、しばしば生じたのです。しかもこのときは、都から派遣されてきた役人たちが相手の村に味方して、時には武力を用いて介入することもあったのです。
 村の若者たちは、紅葉のもとに集まり、何とかしなければと話し合いました。そして、紅葉を頭目として結集し、闘おうということになったのです。紅葉はこの流れに逆らうことができませんでした。
 紅葉の評判はかなり遠方にまで伝わっていましたから、紅葉が立ちあがったと聞いて、多くの人びとが駆けつけました。中には飯にありつこうとする浮浪者たちや、山に巣食う山賊たちも混じっていました。こうして、一大武力集団が生まれたのです。
 紅葉のもとに結集した集団は、敵対する村と激しく闘いました。相手の村に味方する都の軍勢をも苦しめました。
 紅葉の集団に手を焼いた都の役人たちは、鬼女紅葉が妖術を使って人々をたぶらかしていると報告しました。都ではこれを鵜呑みにして、平惟茂を派遣しました。
 平惟茂の率いる本格的な軍勢の前には、紅葉の集団は太刀打ちできません。当初はかなり抵抗しましたが、やがて追い詰められていきました。
 紅葉は、村の若者たちと共に、山の洞窟に身を隠すなどして最後まで抵抗しましたが、わが子経若丸の憤死の知らせが伝えられた時、平惟茂の前に姿を晒し、惟茂の振り降ろす太刀を身に受けたのでした。 (浪)

 出典:清飲検協会報(平成30年7月号に掲載)