【随筆】−「サーヴィトリ姫」    浪   宏 友



 閻魔(えんま)さまといえば、知らない人はいないと思います。死者を前にして、生前の行いを調べ、善い行いを積み重ねた者は極楽へ送り、悪い行いを繰り返した者は地獄に送るという、いわば冥府の裁判官です。
 閻魔さまは、もとはといえばインドで信じられていた神さまです。「ヤマ」と呼ばれていました。この神さまが中国に伝わるとき、閻魔、焔魔などの字が当てられました。
 ヤマは、冥府に関係する神であることは、インドでも一貫していましたが、冥府における立場や働きは、長い間に変遷があったようです。
 ヤマは、太陽神ヴィヴァスヴァットの子であり、双子の妹ヤミーを妻として、人類の祖となりました。
 ヤマは人間の最初の死者となり、人びとが死んだときにたどる冥途への道を開拓して、死者の王となりました。このときのヤマの国は、幸福に満ちた天国だったようです。
 どこでどう変わったのか、ヤマは黄色い服を着て、頭には冠をいただき、手には捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛って、みずからの国に連れて行くと考えられるようになりました。
 この段階で生まれたとみられる説話が残っています。
 その国の王の一人娘サーヴィトリは、美しい立派な女性に成長しました。彼女は父王に命じられて、結婚相手をさがす旅に出ました。
 長い旅の果てに辿り着いた土地で、ある国の王と王子に出会いました。二人は敵のために自国を追われ、この地に隠れ住むという身でありました。それでも、王子は、気品を失わず、不遇を嘆くことも、恨むこともなく、日々を正しく過ごしておりました。
 彼女は、このサトヤヴァット王子こそ、私の夫となるべき男性であると見定めて、急ぎ帰国しました。
 彼女が父にこのことを告げると、かたわらで聞いていた仙人ナーラダが、心配そうに首を振りながら、「サトヤヴァット王子は立派な青年で、サーヴィトリ姫の婿に相応しいけれど、これから一年後に死ぬ運命にある」と言うのです。
 これを聞いた父王は、娘に、ほかの男性をさがすようにさとしましたが、彼女は聞き入れません。父王はやむなく、サトヤヴァット王子の父を訪ね、二人を結婚させたいと伝えました。こうして二人はめでたく結婚したのです。しかし、二人には、一年後の大試練が待ち受けているのです。
 運命の日、若い夫婦は、近くの森に出かけました。いつものように快活に振る舞っていた夫が、不意に頭痛を訴え始めました。夫の頭をひざに抱きながら、ついにその時がきたと彼女は観念しました。
 そのとき、近くに気配を感じて目を上げますと、黄色い服を着て、頭に冠をいただき、手に捕縄を持った神々しい男が自分たちを見下ろしているのが見えました。
 「あなたはどなたですか」と彼女が聞きますと、「私はヤマである。サトヤヴァットを迎えに来た」というのです。そして、サトヤヴァットの体から霊魂を抜きだし、手に持っていた縄でしばって立ち去ろうとしました。
 彼女は必死で後を追い、「私の言葉をお聞きください、私の願いをお聞きください」とすがりつきました。ヤマは、彼女のまごころに打たれて、「サトヤヴァットの命以外の願いならかなえてやろう」と約束しました。
 彼女は、「私たち夫婦には子がいません。どうか私に、夫の子を産ませてください」と願いました。この願いをかなえるには、彼女の夫を生き返らせるほかありません。ヤマは彼女をじっと見つめていましたが、「良い子を産んで、幸せになりなさい」と、夫を返してくれました。
 これは古くからインドに伝わるお話だということです。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成30年9月号に掲載)