【随筆】−「飛天夜叉と姫」    浪   宏 友



 「外面似菩薩、内心如夜叉(げめんじぼさつ ないしんにょやしゃ)」などと言います。表情や態度物腰は菩薩のように優しく慈悲深く見えるけれども、その実、心の中は夜叉のように荒々しく無慈悲であるというような意味です。
 インドに、ハーリティという夜叉女がいました。人間の子を捕まえては食べるという鬼女でしたが、お釈迦さまに諭されて、人間の子を護る神となりました。鬼子母神です。東京では、雑司ヶ谷の鬼子母神や入谷の鬼子母神が有名です。
 この話から、荒々しい夜叉であっても、芯には優しい心が隠れていることが伺えます。
 インドの神だった夜叉は、仏教と共に中国に伝わり、インドとは違った夜叉のすがたが描かれるようになりました。
 こんな話が伝わっています。
 汝州(じょしゅう)にある、広大な屋敷に眠っていた姫が、朝になって目覚めると、部屋の様子がいつもと違います。
 寝台から降りて、部屋を見回しても、見慣れない調度ばかりです。窓を開けて外を見たときに、怖気がたちました。地上が、遙か下方にあるのです。地上を歩く人々が、豆粒よりも小さく見えます。姫は、とてつもなく高い塔の中にいたのです。
 何が起きているのか理解できません。外に出ようと、戸口を探しましたがみつかりません。姫は不安に満ちて寝台に倒れ込みました。
 眼を覚ますと、優しい男の声が語りかけてきました。驚かせてごめんとあやまりながら、不思議なことを言い始めました。
 「私は人間ではない。天から下ってきた者だ。そなたを妻とする定めにより、ここに連れてきた。共に暮らしてほしい」
 姫は驚きましたが、相手が立派な青年でありましたし、高い塔から逃げ出す道もみつからないこともあって、ここでこの青年と暮らそうと思い定めました。
 天人と名乗る青年は、姫に優しくしてくれました。青年は毎日出かけましたが、帰って来たときには、姫の好きな食べ物や、姫の喜びそうな土産を持ってきてくれました。
 これほど優しい青年が、ただひとつ、厳しく禁じたことがありました。それは、自分が出かけるときに、窓をあけて、外を見てはいけないというものでした。姫は、この言葉を固く守って、決して窓を開けませんでした。
 ところがある日、青年が出かけるときに、窓が激しい風に揺さぶられて、大きな音を立てて開いてしまったのです。音に驚いて姫が窓を見たとき、窓の向こうに飛び去る者が見えました。真っ赤な毛髪、真っ青な肌、ロバのような耳。それは紛れもなく飛天夜叉の姿でした。姫は驚き、その場にへたり込んでしまいました。
 その日の夕方、青年が帰ってきて、姫の前に降り立ちました。
 姫は、朝のことを思い出して震えていますと、青年は優しく言いました。「見たとおり、私は夜叉だ。私の正体を見てしまったお前は、もう、ここに置いておくことができない」
 姫は、泣きながら言いました。「あなたが夜叉なら、私も夜叉女になります。これまでどおり、あなたのそばに置いてください」
 青年は黙って首を横に振ります。
 「それなら、あなたのそのお姿で、私と一緒に街に住みましょう」
 すると青年は言いました。「私が人間と一緒に住むと、周りに疫病が流行るのだよ」
 それから幾日か後、強風が吹き、雨が激しく振る夜に、青年は姫を抱きかかえ、夜叉となって窓から飛び出しました。
 姫の父母の住む屋敷の庭に下り立ち、姫を降ろすと、たちまち飛び去ってしまいました。
 物音に気づいて様子を見に来た家人たちは、姫のすがたに驚きながら、中に招じ入れました。それっきり、飛天夜叉は、姫の前にすがたを現しませんでした。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成30年10月号に掲載)