【随筆】−「餓鬼」          浪   宏 友



 古くから伝わる「餓鬼草子」という絵草子があります。餓鬼とは、痩せこけて腹ばかりが膨らみ、骸骨のような顔に、大きな口が目立つ異様な鬼です。
 裏通りの空き地で排便している男女のまわりに餓鬼が群がっている図を、よく目にします。この餓鬼は「食糞(じきふん)餓鬼」といって、人の排出した糞便しか食することができないのです。
 別の絵では、出産したばかりの女性の脇に餓鬼がうずくまっています。生まれたばかりの赤子を囲み、笑顔ではしゃぐ女たちの隙を狙って、嬰児を食べようとしているのです。昔は、乳幼児の生存率が現在よりもずっと低かったといいますから、そうした事情がこのような餓鬼を生み出したのかもしれません。
 酒宴にふける貴族たちの背中に、小さい餓鬼が憑りついている絵は、心に住む餓鬼を表しているのでしょうか。
 「餓鬼」とは「餓えた鬼」です。食べたいのに、食べられないのです。ようやく手に入れた食べ物を口に運ぶと、たちまち炎になってしまいます。小川の清らかな水を手ですくおうとすると、たちまち糞便や膿みに満ちた濁水に変わってしまいます。
 人の糞便とか、亡くなったばかりの人の屍(しかばね)など、およそ食品とは言えないものなら、食べることを許されるという餓鬼もいます。
 生前に正しい道を歩んできた人は、浄土に生まれかわり、満ち足りた日々を送ることができます。
 お金でも、地位・権力でも、人の愛でも、もっともっとと欲しがって、他人を蹴落としてでも手に入れてきた人々。自分の楽しみばかりを求めて家族さえも顧みようとしなかった人々。こうした人々は死後、餓鬼に生まれ変わると言い伝えられています。
 いつも飢えてさまよっている餓鬼が、お腹いっぱい食べられる機会があります。「施餓鬼供養」です。このときだけは、お供物を欲しいだけ食べることができます。
 しかし、施餓鬼供養に巡り合い、久方ぶりに思う存分食べて満足した餓鬼も、翌日にはもとの空腹に戻ってしまいます。
 お腹を満たした餓鬼が、お坊さまの読むお経に耳を傾け、心を入れ替えれば、人間に生まれかわる道も開けてきます。
 こうした餓鬼の思想は、仏教と共に伝わってきたものだと思いますが、その後、日本で独自の展開をしたのではないかと、私は考えています。困窮や戦乱に喘いできた民衆には、単なる言い伝えにおさまらない切実さを、餓鬼に感じたのではないでしょうか。
 「餓鬼憑き」と呼ばれる説話があります。
 ある若者が、隣村での祝い事に呼ばれて遅くなり、真夜中に山道を通りました。お祝いごとの後ですから鼻歌など歌いながら、提灯ひとつで真っ暗な山道を行きました。
 ところが峠に差し掛かったころ、急に空腹に見舞われました。空腹は激しくなり、とうとう動けなくなってしまったのです。助けを求めようにも人が通るわけもなく、提灯も消えた中で気が遠くなっていきました。
 どれくらいたったでしょうか。揺り動かされて気が付きました。どうやら、通りかかった猟師に助け起こされたようです。
 声にならない声と、もがくような身振り手振りで、ことの次第を伝えますと、そりゃあ餓鬼に憑かれたんだと猟師がいいました。
 男は猟師から握り飯をもらって貪り食べました。ようやく人心地がついた男に猟師が言いました。この峠を真夜中に通るときは、餓鬼に食わせる食べ物を持っていなければならないのだ、と。こうして男はようやく自分の村に帰り着くことができました。
 男から話を聞いた村人たちは、真夜中にこの峠を通らなければならないときは、餓鬼にあげる握り飯を余計に持って行くようになったということです。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成30年12月号に掲載)