【随筆】−「身代わり」          浪   宏 友



 平安時代の物語です。
 ある高僧が、重病に冒されて明日をも知れぬ身となりました。お寺の奥の部屋で、医師たちが力を尽くしていますが、容態は快方に向かいません。
 高僧を慕う人びとがお寺に集まり、悲しみに満ちながら、心配そうに見守っています。
 高僧の弟子たちは、自分が住職を務める寺々を放り出して駆けつけ、本堂に集い、加持祈祷に全力を尽くしていますが、一向に効験が現れません。
 弟子たちは交代で加持祈祷を続けながら、どうしたものかと思案しました。ある僧が、ここは著名な陰陽師安倍晴明を招いて、延命の願をかけてもらうしかないのではないかと発案しました。
 仏教の僧の立場で、陰陽師に頼るのは気が進まないという者もありましたが、自分たちの力の限界を思い知らされているところでしたから、最後の頼みの綱ということで、使いの者が、安倍晴明のもとに走りました。
 要請を受けて安倍晴明が駆けつけ、壇をこしらえて、泰山府君を祀り、供物を供え、延命の祈祷を行ないました。
 中国東部にある泰山は、死者の霊が集まるところとされています。泰山府君は死者を裁く神であり、冥界の王ともされています。
 安倍晴明は、泰山府君に祈って、高僧の延命を願ったのです。
 祈祷を終えた安倍晴明は、居並ぶ高僧たちに向かって言いました。
 「誠を尽くして泰山府君に祈りましたが、このたびの僧正のご病気は極めて重く、延命の願いはお聞き届いただけないと存じます」
 この言葉を聞いた一同がざわめき始めるのを押しとどめるように、「ただ一つ!」と、安倍晴明は声を張り上げました。
 皆が静まるのを待って、改めて、安倍晴明は語りました。
 「ただ一つ、お弟子の僧の誰かが、僧正の身代わりになってくだされば、その僧のお名を泰山府君の庁の鬼籍簿の僧正の名と写し替えることは可能と存じます」
 弟子僧の誰かが、僧正に変わって鬼籍に入れば、僧正の命は長らえるというのです。
 弟子衆は静まり返りました。下を向く者、互いに顔を見合わせる者、一点を見つめて固くこぶしを握り締める者。誰一人として、名乗りを上げるものは出ませんでした。
 重苦しい沈黙を破って「私のようなものでよければ、僧正の命に替わらせていただきたい」と声が上がりました。見れば、末席に隠れるように座っていた老僧でした。
 一同がざわめきました。この者は、身分の低い貧しい家から出た弟子ですが、生来の愚鈍で修行が進まず、後から入った者がどんどん出世するのに、今もって長屋の片隅に寝起きして下働きをしているのでした。師の僧正からも忘れられているほどでした。
 老僧は言いました。「私は長年師の教えを受けながら、生来の愚鈍でなにひとつものにならず、ただ申し訳ない気持ちでいっぱいでした。こんな愚か者の命で、師の命が長らえるのならば、こんなに嬉しいことはありません。今こそ、ただ一度のご恩返しをさせていただきたいのです」
 一同が感激する中、安倍晴明も感動し、老僧の名前を状にしたため、泰山府君の神前に供えて祈りました。
 やがて僧正がよみがえり、老僧が身代わりに立った話を聞いて涙を流して喜び、あまりにも愚鈍で、ものにならない弟子と打ち捨てたことを深く詫びるのでした。
 老僧は、泰山府君の呼び出しが来るものと待ちましたが、一向にその日が参りません。
 そんなある日、安倍晴明が僧正と老僧を訪ね、伝えました。泰山府君が老僧の心根をあわれみ、二人の寿命を延ばしてくれたというのです。師弟は、手を取り合って喜び、安倍晴明に心から礼を言うのでした。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成31年1月号に掲載)