【随筆】−「追儺」            浪   宏 友



 京都の平安神宮では、2月3日の節分祭で、大儺之儀(だいなのぎ)を執り行います。
 大極殿前の広場に、四方を注連縄で結界した斎場がしつらえられます。
 陰陽師(おんみょうじ)が、斎場の中央に立ち、大極殿に向かって祭文を奏上します。奏上が終わると、方相氏(ほうそうし)が正面に進みます。
 方相氏は、大きな顔に黒い口、ざんばら髪で、太い眉毛を四つ、金色の目を四つ持つ神さまです。黒い衣、緑色の大きな衿、赤い裳裾という衣装を着けています。
 方相氏は大極殿に向かって立ち、左手の盾(たて)と右手の矛(ほこ)を打ちつけて、「おにやろう」と呼ばわります。「鬼を追い払おう」という意味のようです。方相氏はこれを三回繰り返します。
 今度は、上卿(しょうけい)が中央に立ち、桃の弓で葦の矢を、北東と北西の上空に向かって射放ちます。
 続いて、殿上人(でじょうびと)が桃の杖で四方を打ちます。
 この後、方相氏を先頭に、「おにやろう」と呼ばわりながら、斎場を三回まわり、応天門に向かいます。
 応天門では、方相氏、上卿、殿上人が、門から外に向かって、同じことを行ないます。鬼を門外に追い出すということなのでしょう。これで大儺之儀は滞りなく終わります。
 平安神宮では、歴史学者猪熊兼繁さん(昭和54年没、京都大学名誉教授)の時代考証で、古い時代に宮中行事として執り行なわれていた大儺之儀の、式次第、作法、祭具、衣装を復元し、昭和49年から毎年行なっているそうです。
 大儺之儀は、中国で古くから執り行われていましたが、飛鳥時代の終わりごろ日本に伝わり、宮中行事として行われるようになったと考えられています。
 「儺(な)」は、現代では「おにやらい」と読み、疫病を追い払う民間行事とされています。もともとは、人が火で悪鬼を払う、災難よけの行事を表しているそうです。
 方相氏について、面白い話がありました。
 大儺之儀が中国から日本に伝わり、宮中行事となったときは、方相氏は先頭に立って鬼を追い払う役目でした。
 四つの目で四方を見据え、盾と矛を打ち付けて大音を響かせ、「おにやろう」と大声で呼ばわりながら、大勢の人々を従えて宮中を歩き回ります。最後は、逃げる鬼を追いかけて走り回ったのかもしれません。このとき方相氏が追い払っている鬼は目に見えません。見えない鬼を追いかけて走り回る方相氏の後ろから、大勢の人々が、一緒に走りながらついて行きます。
 この姿が、逃げ回る方相氏を、大勢の人々が追いかけていると見えたのでしょうか。鬼を追い払っていた方相氏が、いつのまにか鬼として追われる立場になっていました。
 平安時代の比較的早い時期に、行事の名称が「大儺」から「追儺」に変わっているようですが、方相氏が追われる立場に変わったのはこの頃かもしれません。
 方相氏が鬼として追われる立場になりますと、これまでは目に見えなかった鬼が、目に見える鬼になりました。そして、方相氏のすがた・かたちが、鬼のすがたの原型となったようです。
 宮中行事としての追儺は、やがて廃れていきました。宮中では行われなくなった追儺は、民衆の間で行われるようになり、やりかたも変わってきたようです。
 現代では、神社仏閣で節分行事が催されています。それぞれの家庭でも豆まきが行われます。赤鬼・青鬼が保育園に乱入し、園児たちに豆をぶつけられています。
 そんな中で、平安神宮は飛鳥時代の大儺を復元し、方相氏も、鬼を追い払う立場に戻ったようです。(浪)
 出典:清飲検協会報(平成31年2月号に掲載)