【随筆】−「石畳」        浪   宏 友



 善光寺は、たびたび火災に見舞われましたが、そのたびに再建されてきました。
 江戸時代の初めにも大火があり、再建するときに、本堂が現在の位置に移されました。宝永四年(1704)のことでした。
 善光寺参道は、二天門跡から本堂前まで、450メートルぐらいと思われますが、当初は、何の整備もされていないむき出しの土の道でした。雨が降れば泥んこになります。寒いところですから、雪でも降れば凍りついたでしょうし、雪融けにはぬかるみになったでしょう。乾燥しやすい季節には土ぼこりが舞い上がったのではないでしょうか。参拝者は難儀だったと思います。
 正徳3年(1713)、腰村(現在の西長野)にある西光寺の住職単求(ぜんぐ)の寄進で、本堂前に敷石が詰められました。
 正徳4年(1714)、二天門跡から山門下まで、400メートルあまりの参道にも、敷石が詰められ、石畳の道となりました。寄進したのは、江戸中橋上槙町(現在の日本橋三丁目)の豪商大竹屋平兵衛でした。
 大竹屋平兵衛が敷石を寄進したいきさつについて、悲しい物語が伝えられています。
 伊勢出身の平兵衛は、江戸で石屋を営んで財をなしました。このころの江戸は、経済的にも発展していたと思われますから、その潮流に乗ったのでしょう。平兵衛も、妻女も、無我夢中で働いたのではないでしょうか。
 そうした中で誕生した長男は、跡取り息子として大切に育てられたと思いますが、人間性の形成には失敗したようです。いつしか放蕩者になってしまったのです。たまりかねた平兵衛は、長男を勘当してしまいました。
 ある夜、平兵衛の店に盗賊が忍び入りました。それと気づいた平兵衛は、かねて用意してあった槍を取って、賊を突き殺してしまいました。明かりを持ってこさせた平兵衛は驚きました。賊は、なんと、勘当した長男だったのです。平兵衛は息絶えた息子を抱き上げて、声を出して泣きました。
 平兵衛は、富豪と言われるほど財をなしたというのに、息子一人、幸せにすることができませんでした。そればかりか、金に困って戻ってきた息子を、自分の手で突き殺してしまったのです。
 すっかり嫌になってしまった平兵衛は、親戚筋に店を譲って隠居し、巡礼の旅に出ました。どこをどう巡ったのでしょうか、やがて善光寺にたどり着きました。
 そこで目にしたのが、ぬかるみの参道でした。自分のわらじも泥だらけになりました。参拝する人々も困り果てていました。
 平兵衛は、思いました。そうだ、ここに敷石を敷かせてもらおう。善光寺如来さまに喜んでいただければ、息子の後生のためにもなるだろう。
 平兵衛は、さっそく、善光寺に相談に行きました。善光寺はもちろん大喜びです。やがて江戸からお金が届き、善光寺は、このお金を使って参道を石畳にしたのでした。
 おそらく平兵衛も現場に出て、あれこれと世話を焼いただろうと思います。江戸から職人を呼び寄せたかもしれません。
 二天門跡から本堂前まで、整然と敷き詰められた長方形の石の総数は、七七七七枚と言われています。現在は、いくらか少なくなっているようです。
 この石畳は、補修されながら、ほぼ当初のまま今に到っているそうですから、私たちが善光寺にお参りするときは、江戸時代の敷石を踏んで歩いているわけです。平兵衛の子孫も、折に触れて石畳の手入れをしたそうです。
 平兵衛は茂菅の静松寺で出家し、道専と名乗りました。このお寺にも、平兵衛が寄進したとされる立派な石段があります。今は、危険防止のため使われていません。
 平兵衛は、享保11年(1726)に往生し、墓所は静松寺と善光寺境内に今も残されているということです。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和元年5月号に掲載)