【随筆】−「本堂」        浪   宏 友



 善光寺の仁王門をくぐり、仲見世通りを過ぎて山門を抜けますと、善光寺の本堂が聳えています。質素な佇まいですが、重量感があります。江戸時代に建立された伽藍で、国宝になっています。
   本堂前に置かれた大香炉に線香を投げ入れて煙を身に浴び、本堂に向かいます。本堂正面の階段を上ったところが回廊です。回廊の中ほどに太い柱が並んでいるというちょっと珍しいつくりで、かなりな広さです。参詣者が多いので、このようなつくりにしたのかもしれません。
 回廊から大きな敷居を越えますと、そこが外陣(げじん)です。目の前に、太鼓の乗った妻戸台(つまどだい)があります。その右側には大きな花瓶に松が生けられています。親鸞松です。さらにその右にびんずる尊者の座像があります。その脇を回り込んで中に入りますと、大きな賽銭箱の前に出ます。
 いくばくかの賽銭を投げ込んで礼拝し、顔を上げますと、須弥壇はずっと奥の方で、手前には内陣が広がっています。参拝者がゆっくりとお参りをする場所で、かつてはここでおこもりをしていたのだそうです。
 内陣の向こうは、内内陣です。ここには仏具が並び、僧侶たちの活動する空間です。
 内内陣の奥は須弥壇です。ご本尊は中央に祀ってあるものと思い込んでいましたが、そうではありませんでした。中央から一つ左に寄ったところに祀られているのでした。
 中央から右側は御三卿の間で、ここに三体の座像が並んでいます。中央は本田善光(よしみつ)卿、右側が妻女の弥生(やよい)御前、左側が息子の善佐(よしすけ)卿です。
 本田善光は、難波の堀江で御本尊に呼び止められ、御本尊を信濃までお連れした人です。弥生は善光の奥方、善佐は息子です。
 善佐は一度死出の旅に出ましたが、善光寺如来のはからいで、現世に戻ってきました。その途中で皇極(こうぎょく)天皇を見かけ、そのことを聞いた善光が善光寺如来にお願いして、皇極天皇を助けてもらいました。
 このことに感動した皇極天皇が、水内(みのち)の芋井(いもい)に伽藍を建ててくれました。ここから、善光寺が始まったわけですから、善光卿・弥生御前・善佐卿は、善光寺の開山にあたるわけです。
 御三卿の間の左側に、瑠璃壇があって、そこに善光寺如来が祀られています。
 善光寺如来は一光三尊阿弥陀如来で、絶対秘仏です。厨子に収められ、瑠璃壇に安置され、瑠璃壇の前には、鳳凰と龍の二枚の金襴の戸張が懸かっています。この戸張は、法要などの時に、ほんの短時間、上げられる時があるそうですが、戸張が上がってもご本尊を見ることはできません。
 善光寺では、ご戒壇巡りということがなされます。須弥壇の上手側の袖のあたりに、地下に降りる階段があります。ここを降りるとまったくの暗闇です。何も見えません。参拝者は、右手で右側の壁に触ったまま進みます。やがて、金属の輪に触れます。この輪に触れることによって、善光寺如来と結縁されるのだと聞きました。ここからさらに進むと、出口の明かりが見えます。
 この地下道は、須弥壇の周囲を一巡りしているのだそうです。
 昔は、白装束、白足袋に、新しいわらじを履いて、お戒壇を巡ったのだそうです。このわらじは持って帰り、命終したとき棺に収めてもらったのだそうです。善光寺如来と縁づいたわらじを履いて、善光寺如来のもとに急いだのでありましょう。
 お戒壇めぐりをした私は、内陣に戻って正座し、もう一度須弥壇にご挨拶をしました。
 江戸時代の寛永年間に大火で焼失し、徳川幕府の肝いりで再建された伽藍のこの場所に、数知れぬ善男善女が座って、御本尊を仰ぎ見てきたと聞けば、不信心な私でも、いくらかは敬虔な気持ちになったようです。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和元年6月号に掲載)