【随筆】−「二十五菩薩」    浪   宏 友


 「仏説観無量寿経」には、念仏の行者が、臨終の後、西方極楽浄土に生まれることについて、詳しく説かれています。
 仏の教えを聞いた念仏の行者が、一生を通して、どのような心を持ち、どのような行いをしてきたかによって、どのような臨終を迎えるのか、どのように極楽浄土に生まれ、どのように極楽浄土で暮らすのかなどについて、九通りに説かれているのです。
 仏の教えをよく学び、よく実践してきた念仏行者の臨終には、阿弥陀如来が直接お迎えに来るとあります。このとき、観世音菩薩、大勢至菩薩をはじめ、化身の仏や、数限りない菩薩たち、そして修行者たち、天人たちが阿弥陀如来のお供をしてきます。
 念仏行者が息を引き取ると、観世音菩薩が両手で捧げ持つ蓮の台(うてな)に、いつのまにか乗っています。そして、そのまま極楽に連れて行ってもらえるのです。
 お年寄りが「そろそろお迎えが来る頃だ」などと言っているのを聞いたことがありますが、それは、阿弥陀さまがお迎えに来てくださるという意味でありましょう。
 阿弥陀さまのお迎えを頂くには、生きている間に、念仏を唱え、たくさんの善いことをしておけばいいのです。
 善光寺如来は、もともと阿弥陀如来です。善光寺に参拝して、善光寺如来と縁を結べば極楽往生は間違いないとさえ言われています。
 善光寺如来は秘仏ですが、経蔵の裏手には、阿弥陀如来が彫られた石像があり、爪彫り如来と呼ばれています。
 善光寺本堂に入って正面を見上げますと、内陣と内内陣を隔てる扉の長押の上に、金色に輝く二十五菩薩の像があります。3枚の大額に金箔押しの手法で描かれた華麗な菩薩たちです。
 二十五菩薩とは、どういう菩薩たちでしょうか。
 「十往生阿弥陀仏国経」あるいは「山海慧菩薩経」というお経があります。これら二つのお経は、大筋では同じことがのべられているようです。平安時代、恵心僧都源信が著した「往生要集」に引用されてから、人びとの目に触れるようになったそうです。
 私は、これらのお経に直接触れていませんので、詳しい内容はわかりませんが、阿弥陀仏が二十五菩薩を遣わして念仏の行者を擁護するという内容だということです。
 二十五菩薩は、現世の人びとの間に入り込み、苦悩する人に念仏を教えて救い上げたり、人びとが善いことをするように導いたりする菩薩たちです。
 こうして、二十五菩薩に導かれた人々は、臨終には阿弥陀さまのお迎えを得て、極楽浄土に連れて行っていただけるのです。
 そう思いながら二十五菩薩を描いた三つの額を見上げていました。
 見ているうちに、あることに気づきました。菩薩が25人ではなく26人いたのです。右の額に8人、真ん中の額に8人、左の額に10人で、26人です。
 説明によれば、このうちの1人は菩薩ではなくて、比丘(出家修行者)だそうです。そういわれてみると、真ん中の額に、それらしき姿が見られました。この1人だけ、後光が射していません。ほかの25人の菩薩たちはみんな後光が射しています。
 もう一つ、左の額の真ん中あたりに、誰も乗っていない蓮の台がありました。二十五菩薩の役割から見て、これは臨終を迎えた人のための蓮の台ではありません。一体、誰が、この蓮の台に乗るのでしょうか。
 私は、この台は、二十五菩薩を見上げている人が乗るところではないかと考えました。二十五菩薩の仲間になって、人びとの幸福のために貢献しましょうと、誘っていると、解釈できると思いました。
 二十五菩薩の額には、念仏者の姿が、彫り込まれているのかもしれません。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和元年10月号に掲載)