【随筆】−「百観音」      浪   宏 友


 善光寺本堂の内陣と内内陣の間には、仕切りがあります。その仕切の長押の上に、二十五菩薩の額が掲げられ、その両脇に百観音の額が並んでいます。この観音像は、日本百観音を表しているのだそうです。
 日本百観音というのは、西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所の、合計百か所の寺院に祀られている、100体の観音さまです。
 日本古来の修験道には、修験者たちが山野を歩き、霊地から霊地へ巡拝する風習があったようです。
 修験道に、大陸から伝来した仏教が結びつくと、仏教寺院が霊場となり、修験者が、寺院から寺院へと巡拝するようになっても不思議ではありません。
 仏教の僧侶たちのなかに、聖(ひじり)と呼ばれる人々が生まれてきました。聖とは、人びとの間を遊行して、自ら修行しながら、人びとに教えを説く仏教僧です。こうした修行僧が、仏教の霊場を巡ったことも十分考えられます。
 こうしたことが長年続くうちに、巡拝すべき霊場が定まってきたのでありましょう。同時に、巡拝の順序も定まってきたのだと思われます。
 やがて、京都を中心とする三十三の寺院が観音霊場として定まり、西国三十三か所となりました。
 三十三という数字の裏付けは、観音経にあります。このお経に、観音さまは三十三通りの姿に身を変えて人びとの前に現れ、一人残らずお救いくださると説かれているのです。ここから、観音霊場は三十三か所ということになったようです。
 西国三十三か所を巡拝して満願となるのですが、いつしか、満願したら善光寺に参拝して、善光寺如来に満願のご報告とお礼を申し上げて、締めくくるという風習が生まれたらしいのです。
 京都から遠く、信濃の山奥に建つ善光寺は、霊場の中の霊場であり、信仰者のあこがれの地だった可能性があります。西国三十三か所の最後の寺院が岐阜にあったこともあり、さらに足の延ばして、善光寺にご報告に上がったということかもしれません。
 その後、坂東三十三か所、秩父三十四か所の観音霊場ができますと、観音霊場は百か所となりました。これら百か所の観音霊場は、平安時代には成立していたそうで、日本百観音と呼ばれるようになりました。
 やがて、これら百か所の観音霊場を巡り終わったら、そのご報告とお礼のために、善光寺に参拝するという風習が、出来上がっていったということなのでありましょう。
 善光寺に祀られる百観音は、こうした信仰を受けて作られたものだと思われます。
 これを、信仰的に解釈しますと、困難を乗り越え、辛苦に耐えながら巡った百体の観音さまたちが、善光寺如来と共に、満願した修行者をお迎えくださるということなのかもしれません。
 それにしても、日本には、数多くの霊場があります。ある資料には、北海道から九州まで41の観音霊場が上げられています。それでも、すべてを尽くしているわけではないようです。
 四国八十八か所と呼ばれる霊場は、弘法大師の霊場です。
 地蔵菩薩の霊場、薬師如来の霊場、不動明王の霊場なども、全国各地にあります。
 七福神巡りも、霊場巡りのひとつに数えていいのではないでしょうか。
 ある人の家の近くには、お地蔵さんがいくつも建っているそうです。この人が孫を連れて散歩するとき、お地蔵さんの前を通りかかると、孫と一緒に礼拝するそうです。今では孫のほうから、草花をお供えしたりするそうで、この人と孫の霊場巡りになっているのだと笑っていました。 (浪)

 出典:清飲検協会報(令和元年11月号に掲載)