【随筆】−「瑠璃壇」          浪   宏 友


 善光寺のお堂に入り、大きな賽銭箱にお賽銭を投げ込んで、礼拝します。
 中央に立ったまま正面に向かっても、御本尊と向き合うことはできません。お賽銭箱の左側に出て正面に向かえば、ご本尊と向き合うことができます。
 善光寺のご本尊は、いちばん奥の祭壇の、左側四分の一に祀られていて、ここを瑠璃壇(るりだん)と呼んでいます。
 祭壇の右側四分の三は、「御三卿の間」と呼ばれていて、ここには、善光寺を建立したとされる本田善光(よしみつ)、その妻の弥生(やよい)、その息子の善佐(よしすけ)の像が、祀られています。
 多くのお寺では、正面中央にご本尊をお祀りします。開山(お寺を創始した方)は、その脇に祀られます。そのような先入観のある私には、善光寺の祭壇のつくりは珍しいと感じられました。
 瑠璃壇にはお厨子が置かれ、お厨子の中にご本尊である「一光三尊阿弥陀如来」が御安置されているのですが、このご本尊が絶対秘仏なのです。お厨子の扉は、絶対に開かれることがないのです。
 日本各地に秘仏があります。御開帳の時にだけお姿を現わす仏さまです。御開帳の日取りは、お寺ごとに定められています。
 しかし、絶対秘仏となると話が違います。人びとの前にお姿を現わすことが“絶対”に無いのです。秘仏となったその日から、未来永劫に、人目に触れることはないのです。
 そうはいっても、善光寺は、七年に一度、御開帳を行っています。これはどういうことなのでしょうか。
 実は、善光寺には、前立本尊があります。絶対秘仏のご本尊とまったく同じ姿をしている仏さまです。この前立本尊がまた秘仏となっていて、御開帳のときだけ、お姿を現わすのです。善光寺の御本尊は、二重の秘仏なのですね。
 善光寺の御本尊は、舟形をした一つの光背(一光)に、阿弥陀如来、観世音菩薩、大勢至菩薩の三尊が納まっておられので、「一光三尊阿弥陀如来」と呼ばれています。
 善光寺縁起によれば、このご本尊は、はるかな昔に、インドの月蓋長者(がっかいちょうじゃ)が閻浮檀金(えんぶだごん)という最上級の金を使って作ったものです。
 月蓋長者亡き後、一光三尊阿弥陀如来像は、自ら空を飛んで、百済(くだら)に渡りました。百済の聖明王(せいめいおう)は、この仏を篤く信仰しました。
 その後、仏が日本に渡ることを望まれましたので、百済の王が、日本の欽明天皇に献上するという形で、日本に渡りました。
 この伝説とは別に、仏が自ら海を渡り、難波に漂着したという言い伝えもあります。
 いずれにしても、仏がご自分の意思で日本にお入りになったという点が、重要視されていると思われます。
 日本に渡った仏は、数奇ないきさつを経たのち、本田善光の手によって信州にもたらされ、善光寺の本尊となりました。そういうわけで、この仏は、日本最初の仏像ということになるのです。
 このお話が史実でないことは明らかですが、信仰する人びとには、そんなことはどうでもいいのだろうと思います。
 心理学的に言えば、信仰者が拝んでいるのは、目の前に立つ仏像そのものではありません。仏像を通して、自分の中に現れた仏さまを拝んでいるのです。そのとき湧き上がってきた信仰的な感動を、目の前の仏像にお返ししているのです。
 ご本尊が絶対秘仏であり、その名代である前立本尊が、また、七年ごとに御開帳される秘仏であるということから、そこにはより深い神秘性が感じられます。このことも、信仰する人びとの感動を深くするはたらきをしているのかもしれません。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年3月号に掲載)